両陣営の軍容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 05:11 UTC 版)
「タンネンベルクの戦い (1410年)」の記事における「両陣営の軍容」の解説
歴史家たちによる、両陣営の兵数の推定歴史家の名前ポーランド軍リトアニア軍ドイツ騎士団カール・ヘウェカーハンス・デルブリュック 10,500 6,000 11,000 エウゲーニー・ラージン 16,000–17,000 11,000 マックス・オーラー 23,000 15,000 イェジ・オフマンスキ 22,000–27,000 12,000 スヴエン・エクダール 20,000–25,000 12,000–15,000 アンジェイ・ナドルスキ 20,000 10,000 15,000 ヤン・ドンブロフスキ 15,000–18,000 8,000–11,000 19,000 ジーギマンタス・キアウパ 18,000 11,000 15,000–21,000 マリアン・ビスクープ 19,000–20,000 10,000–11,000 21,000 ダニエル・ストーン 27,000 11,000 21,000 ステファン・クチンスキ 39,000 27,000 ジェームス・ウェストフォール・トンプソンエドガー・ナサニエル・ジョンソン 100,000 35,000 アルフレッド・ニコラス・ランボー 163,000 86,000 タンネンベルクの戦いに参加した兵数を正確に立証するのは困難である。どの同時代史料も、兵数について信頼のおける記述を残していない。ヤン・ドゥウゴシュは、騎兵の部隊数に相当する軍旗の数を、ドイツ騎士団51旗、ポーランド軍50旗、リトアニア軍40旗と伝えている。しかし、その旗1つが騎兵何騎に相当するのかは不明確である。また双方の軍制や歩兵(パイク兵、弓兵、クロスボウ兵)、砲兵の数もわからない。多くの歴史家が兵数の推定に取り組んでいるが、その多くは政治的・ナショナリズム的なバイアスがかかっている。ドイツの歴史家は総じて兵数を少なく、逆にポーランドの歴史家は多く見積もる傾向がある。ポーランドの歴史家の中で最も多い推定は、ステファン・クチンスキによる「ポーランド・リトアニア連合軍39,000人、ドイツ騎士団27,000人」というもので、西欧の文献では「一般に受け入れられている」数字だとされている。 ドイツ騎士団は数で劣るものの、規律、練度、装備の質で勝っていた。彼らは重騎兵が主体だったが、鉛弾や石弾を発射する射石砲も持っていた。また両陣営ともに、その内実は様々な領邦の軍の寄せ集めであり、傭兵も多く参加していた。ボヘミア人傭兵は、どちらの陣営にも参加していた。またドイツ騎士団はヨーロッパ中から十字軍騎士を募集し、22の国や地域からドイツ人を中心とした騎士が参加した。さらにヴェストファーレンやフリースラント、オーストリア、シュヴァーベン、シュテッティン(シュチェチン)からも兵士を集めていた。ハンガリーからはガライ2世ミクローシュとスティボリツィ・スティボルという二人の貴族が200人を連れてドイツ騎士団の陣営に参加したが、ハンガリー王ジグモンドからの援助は期待されたほどのものではなかった。 ポーランド軍は、モラヴィアやボヘミアからの傭兵を含んでいた。チェコ人のみからなる部隊の旗が2つあり、ヤン・ソコル・ス・ランベルカ(チェコ語版)が率いた。このチェコ人傭兵の中には、後にフス派を率いるヤン・ジシュカもいた可能性がある。モルダヴィア公アレクサンドル1世は、みずから遠征軍を率いてポーランド陣営に参じた。ヴィータウタスのリトアニア軍には、リトアニア、ルテニア(現在のベラルーシやウクライナ)からの兵が集まっていた。スモレンスクから来たルテニア人部隊3旗はヴワディスワフ2世の弟のレングヴェニスが指揮を執り、ジョチ・ウルスからは後のハーンであるジャラールッディーン率いるタタール軍が派遣されてきていた。全連合軍の総司令官はポーランド王ヴワディスワフ2世であるが、彼は戦闘に直接参加しなかった。リトアニア軍は副司令官であるリトアニア大公ヴィータウタスの直接指揮下にあり、全体的な戦略の鍵を握っていた。ヴィータウタスは積極的に戦場で働き、リトアニア軍とポーランド軍の連携に力を入れた。ヤン・ドゥウゴシュによれば、ポーランド王冠領の階級が低いメチニクだったジンダム・ス・マシュコヴィツ(英語版)がポーランド軍を指揮したというが、これは疑わしい。おそらく、戦場におけるポーランド軍の指揮は王冠領マルシャウェク(英語版)の ズビグェフ・ズ・ブジェジア(英語版)がとったと考えられている。
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