両陣営の構成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 04:57 UTC 版)
「イギリスのチベット遠征」の記事における「両陣営の構成」の解説
チベット兵のほとんどは急いで徴募された農民であり、規律も練度も士気もかけていた。一部には忠実な僧侶で構成された部隊があり、彼らは剣やジンガル(壁銃)でよく戦ったが、戦況を逆転させるには至らなかった。この状況をさらに悪化させたのが、チベットの将軍たちの臆病な用兵だった。彼らはイギリス軍を必要以上に恐れていたとみられ、敵が小規模でたいてい隊列も乱れていたような状況だったにもかかわらず、積極的に攻撃を仕掛けなかった。またチベット兵は地の利を生かそうとせず、比較的開けた場所での会戦を選ぶ傾向にあった。そこではイギリス軍のマキシム機関銃や一斉射撃戦術が猛威を振るい、チベット側が多数の犠牲者をだすことになった。 これに対し、イギリス・インド兵やその指揮官は、北西辺境の山中で経験を積んだ熟練兵ぞろいだった。3000人の兵員を構成していたのは、第8グルカ・ライフル連隊、第40パターン連隊、第32シーク・パイオニア連隊、第19パンジャーブ連隊、ロイヤル・フュージリアーズおよび山砲、技術者、4連隊から抽出されたマキシム機関銃部隊で構成され、加えてネパールやシッキムで雇われた数千人のポーターが同行していた。経験ある将校、手入れの行き届いた近代兵器、そして兵たちの高い士気が組み合わさった結果、イギリス軍はあらゆる場面で勝利を収めることができた。
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