両陣営の戦力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 10:06 UTC 版)
「ポーランド・ロシア戦争 (1792年)」の記事における「両陣営の戦力」の解説
対ポーランド戦争に投入されたロシア軍の兵力は9万8000人近くに上った。これを率いたのはミハイル・クレチェトニコフとミハイル・カホフスキーだった。またロシア軍は戦闘経験を積んでいた点でも有利であった。カホフスキーはウクライナを通ってカームヤネツィ=ポジーリシクィイ、ヘウム、ルブリンを占領し南からワルシャワに迫る計画であった。一方クレチェトニコフはミンスク、ヴィルノ、ブジェシチ、ビャウィストクと進軍して北方からワルシャワを目指し、カホフスキー軍と合流する予定だった。ロシア側がポーランド国内に優秀な諜報網を敷き、ポーランド軍の配置状況をほぼ把握していたのに対し、ポーランド側はほとんどロシア軍の情報をつかめておらず、中枢部には矛盾したり誤ったりした情報が伝えられることが多かった。ポーランド軍は、どこからロシア軍が侵攻してくるかすら確証を持てなかった。 ポーランド軍の最高指揮官は国王スタニスワフ2世アウグストだったが、実際には彼はこの権限を甥のユゼフ・ポニャトフスキに委任していた。ポニャトフスキは、4万8000人のポーランド王冠領の精兵と、その半数以上のリトアニア兵を動かせると考えていた が、10万人の兵力を整備することを目指した5月3日憲法の制定後ですら、実際のポーランド軍は3万7000人ほどだった。ポーランド軍はまさに再編成の途上にあり、兵数や編成をまとめた書類が4月に完成したばかりだった。また急づくりの新生ポーランド軍は装備も経験も乏しかった。 ロシア軍の侵攻が予想されるウクライナでは、当初3地域に分かれて軍が配置され、それぞれタデウシュ・コシチュシュコ、ミハウ・ヴィエルホルスキ、そしてポニャトフスキ自身が指揮することになった。コシチュシュコの補佐の元でポニャトフスキが率いるウクライナのポーランド軍は、約1万7000 とも、2万1000 とも、2万4000 ともいわれている。また本軍は1万7000人で、ミハウ・ルボミルスキの予備軍が4500人いたという説もある。一方、彼らの前に現れたカホフスキー軍は、実に6万4000人の兵力を誇った。カホフスキー軍は、ミハイル・クトゥーゾフ率いる1万7000人の第1軍、イヴァン・ドゥニン率いる第2軍、オットー・ヴィルヘルム・デアフェルデン率いる第3軍、アンドレイ・レヴァニドフ率いる第4軍に分かれていた。一方、タルゴヴィツァ連盟はロシア軍にとってほとんど足しにならなかった。最初に彼らがロシアからポーランド領民に協力を呼び掛けた際には、僅か数十人が集まっただけという無残な結果を晒した。呼びかけを重ねるごとに参集する人数は少しずつ増えたものの大差は無く、タルゴヴィツァ連盟は軍事的には無価値だとみなされていた。それでも、タルゴヴィツァ連盟軍が最前線での戦いから外されることは無かった。 リトアニアにおけるポーランド方のリトアニア軍は、ポーランド軍の増援3000人を含めても1万5000人ほどであった。この方面を担当していたのはルートヴィヒ・フォン・ヴュルテンベルクだった。しかしヴュルテンベルク麾下の軍は、開戦に至った時ですら何の用意も整っていなかった。これに対するクレチェトニコフ軍は3万3700人 もしくは3万8000人を数え、このロシア軍はタルゴヴィツァ連盟のシモン・コッサコフスキ率いる7300人の第1軍、ボリス・メリン率いる7000人の第2軍、ユーリ・ドルゴルコフ率いる1万5400人の第3軍、イヴァン・フェルセン率いる8300人の第4軍に分かれていた。 またポーランド側では、スタニスワフ2世アウグストの指揮の元8000人の予備軍がワルシャワで待機していた。 コシチュシュコは、一旦ポーランド軍を結集してロシア側の一軍を叩き勝利を挙げることで、経験のない大部分のポーランド兵の士気を上げるという策を提案したが、ポニャトフスキに却下された。実はこの数か月前までは、逆にポニャトフスキが一点集中策、コシチュシュコが戦力分散策を主張していた。ポニャトフスキは、戦争の序盤ではロシア軍との大規模な衝突を避け、同盟国プロイセンの参戦を待つ策をとった。プロイセン軍3万がポーランド軍に加勢すれば、兵力的にはロシア軍と対等になるはずだった。
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