対ポーランド戦
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1939年5月には特務部隊の「ドイッチュラント」連隊がミュンスター陸軍演習場で突撃演習を行った。ヒトラーや国防軍将軍たちを驚嘆させるほどのものであったという。この演習の結果、ヒトラーはSS特務部隊の師団編成を認めた。これを受けて急遽SS砲兵連隊が編成されたが、1939年9月1日からはじまる対ポーランド戦までには師団編成は間に合わなかった。 対ポーランド戦直前の1939年8月10日、SS「ドイッチュラント」連隊とSS砲兵連隊は、陸軍戦車部隊とともに装甲師団「ケンプフ」(de)(師団長ヴェルナー・ケンプフ少将)を編成することとなった。同師団の主力となる戦車部隊は陸軍第7装甲連隊でもって編成されたが、歩兵部隊はSS「ドイッチュラント」連隊で編成され、また砲兵部隊はSS砲兵連隊をもって編成された。同師団は北方軍集団(司令官フェードア・フォン・ボック上級大将)隷下の第3軍(司令官ゲオルク・フォン・キュヒラー大将)隷下の第1軍団(de)(軍団長ヴァルター・ペトツェル中将)の隷下に組み入れられ、ポーランド北方の東プロイセン南部に配置された。同師団は第1軍団唯一の装甲師団であった。 同師団は1939年9月1日の開戦と同時に東プロイセンから南進を開始し、ムワヴァの戦い(de)やルジャンの戦い(en)に参加し、大きな損害を出しながらも同地のポーランド軍を撤退させた。続いてブーフ川を渡河して南下し、首都ワルシャワを防衛せんと向かうポーランド予備軍の進路を断つことに貢献した。その後、9月27日のポーランド降伏までモドリンの戦い(de)に参戦した。 一方ライプシュタンダルテは南方軍集団(ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将)隷下の第8軍(司令官ヨハネス・ブラスコヴィッツ大将)の隷下の第13軍団隷下の連隊戦闘団として対ポーランド戦に参戦した。第8軍は軍集団中央から進撃する第10軍の擁護のためにその左翼から進撃する軍であり、装甲部隊は無く、自動車化されたライプシュタンダルテが唯一の機動兵力であった。ライプシュタンダルテは9月1日にグラ(英語版)で初めて戦火の洗礼を受けた。その後第17師団の隷下に加えられ、ウッチ占領に貢献した。さらにその後第4装甲師団に転属となり、ブズラの戦い(de)で活躍しポーランド回廊から撤退してくるポーランド軍がワルシャワに向かうのを防いだ。その後ライプシュタンダルテは9月21日からモドリン要塞の攻撃に参加。ポーランド降伏まで戦った。 「ゲルマニア」連隊は南方軍集団隷下の第14軍(司令官ヴィルヘルム・リスト大将)隷下で参戦した。チェコスロバキアから国境を超えて進軍し、ポーランドの工業地帯やレンベルクを攻撃した。 「デア・フューラー」連隊は未だ訓練が終了していない状態だったので対ポーランド戦には参戦しなかった。 SS特務部隊は対ポーランド戦において大きな戦果をあげたとは言えないが、その割に損害は甚大であった。これについて陸軍からは「SS特務部隊は陸軍の師団の一員となれるほど訓練を受けていない。特務部隊将校は軍事教養がほとんどなく指揮官として無能に近い」と指摘された。一方SS側は「面識もない陸軍軍人の指揮下に置かれ、しばしば陸軍はまともな重火器支援もせず、食料も渡さずにSS特務部隊に困難な任務を押し付けた。解決方法は一つだけであり、それはSS特務部隊に師団編成を認め、重火器も食料もSSで自給できるようにすることである」と反論している。
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対ポーランド戦
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「ゲルト・フォン・ルントシュテット」の記事における「対ポーランド戦」の解説
1939年5月、ポーランド侵攻を計画していたヒトラーの求めに応じて現役復帰した。同年9月に始まる対ポーランド戦には南方軍集団司令官として参加した。南方軍集団には第8軍、第10軍、第14軍の3軍が属し、第8軍と第10軍はシュレージエン地方から、第14軍はスロバキアからポーランド領へ侵攻した。南方軍集団には4個装甲師団が配され、それらはすべてワルシャワへの最短距離の位置にいる第10軍に属した。第10軍がワルシャワへ向けて急進撃した。9月9日に第8軍がポーランド軍から反撃を受けたが、ルントシュテットとその参謀長エーリヒ・フォン・マンシュタイン中将の的確な状況判断によりこれを退けた。ポーランド戦での戦功を賞されて、9月30日に騎士鉄十字章を受章した。ポーランド戦後にはポーランド占領軍を統括する東方総軍司令官に任じられた。
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対ポーランド戦
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「エーリッヒ・フォン・マンシュタイン」の記事における「対ポーランド戦」の解説
1939年8月18日に彼はポーランド侵攻に備えてルントシュテット上級大将の南方軍集団の参謀長に任命された。作戦計画はブルーメントリット大佐が発展させた。ルントシュテットは装甲部隊の大半をライヘナウ指揮の第10軍に集中させ、ヴァイクセル川西岸のポーランド軍を包囲、殲滅するというマンシュタインの作戦計画を採用した。計画では南方軍集団の二つの軍、リスト指揮の第14軍とブラスコヴィッツ指揮の第8軍がライヘナウの側面をそれぞれ支援しポーランドの首都ワルシャワに進攻することとなっていた。マンシュタインはポーランドをソ連との緩衝地帯と考えていた。彼はポーランド戦の開始がドイツを二正面作戦に引き込むことを懸念していた。 ポーランド戦は9月1日に開始され、成功裡に進展した。南方軍集団の管轄地域では、第10軍の装甲部隊は退却するポーランド軍を攻撃し、防御態勢に入る時間を与えなかった。側面を担当した第8軍はウッチ、ラドム、ポズナニのポーランド軍の集中を防いだ。マンシュタインはヴァイクセル川からワルシャワへ進攻するという当初の計画を変更し、ラドムのポーランド軍の包囲をルントシュテットに進言した。この包囲は成功し、ポーランド軍の南部からワルシャワへの抵抗を取り除いた。
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