両陣営の戦略と進路とは? わかりやすく解説

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両陣営の戦略と進路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/24 06:07 UTC 版)

ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争」の記事における「両陣営の戦略と進路」の解説

1409年12月までに、ヨガイラヴィータウタス基本的な戦略をまとめた。両国連合して巨大な軍団編成しドイツ騎士団国首都マリーエンブルク(現マルボルク)を目指すことになった一方防衛側に回ることになったドイツ騎士団は、敵の両国軍が合同し侵攻してくることを想定しておらず、ポーランド軍ヴィスワ川からダンツィヒへ、リトアニア軍ネマン川からラグニット(現ネマン)へ進出してくると想定して二正面作戦備えていた。裏をかかれたことに気づいたウルリッヒ・フォン・ユンギンゲンは、各地展開して敵の侵攻備えていた軍を、その中間付近にあるシュヴェツ(現シュヴィエチェ)に集結させた。ヨガイラヴィータウタスは、自分たちの意図を隠すために国境地帯各地襲撃して、ドイツ騎士団部隊釘付けにした。 そうしてからポーランド・リトアニア各軍は、国境から80kmほど手前のチェルヴィンスクに集結しヴィスワ川舟橋をかけて一斉に渡河した。彼らは多民族混合連合軍ありながら、この並外れて正確で協調取れた機動を、1410年6月24日から30日のわずか1週間ほどで完遂した。さらに渡河後に、マゾフシェヤヌシュ1世スタルシシェモヴィト4世合流した7月3日、この大軍勢はマリエンブルク向けて北上開始し9日ドイツ騎士団国領に入ったポーランド・リトアニア軍の動き把握したウルリッヒ・フォン・ユンギンゲンは、シュヴェツにハインリヒ・フォン・プラウエンと3000人の兵を残し、自ら本軍率いてカウエルニク(現クジェトニク)付近のドレヴェンツ川(ドルヴェンツァ川)に防衛線を張り向かった7月11日ヨガイラは、その敵軍強固な防衛線を敷いている地点避け方針固めた。すなわち、北東から南西流れる川から一旦離れて東に向かい、川を迂回する動き出たのであるドイツ騎士団はローバウ(ルバヴァ)で川を渡りポーランド・リトアニア軍と並行するように東へ進んだポーランド・リトアニア軍は、行軍途中でギルゲンブルク(ドンブルヴノ)の蹂躙した。フォン・ユンギンゲンはこうした敵の蛮行激怒し戦場で彼らを打ち破ることを誓った

※この「両陣営の戦略と進路」の解説は、「ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争」の解説の一部です。
「両陣営の戦略と進路」を含む「ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争」の記事については、「ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争」の概要を参照ください。

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