王領植民地への改変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 07:11 UTC 版)
「バージニア植民地」の記事における「王領植民地への改変」の解説
バージニア植民地では、タバコによる恩恵をこうむるようになっても、安定した状態にはならなかった。またバージニア会社でも当初期待されたほどの利益は上げられなかった。インディアン部族との関係も、ジェームズタウンの虐殺以降、全面的な対立姿勢が続いた。こうした状況の中、国王ジェームズ1世は1624年にバージニア会社の勅許状を廃止し、バージニア植民地をバージニア王室領植民地(Crown colony, 1624年 - 1776年)とした。 バージニア植民地にはそれまでに約8500人の入植者があったが、そのときの人口は1275人であった。バージニア会社による植民事業はまったくの失敗であったが、年季契約奉公人の使用、人頭権による土地配分、議会の招集など、困難な創設期に採用された方策は植民地社会に根を張っていた。これらの初期の慣習と、苦難を乗り切った入植者の気質とにより、入植者には自立的傾向が芽生えた。 王領植民地となったバージニアに対し、国王は総督と評議会を任命し、植民地の代議院は廃止され、新大陸初の立憲主義は後退した。バージニア植民地では住民代表による自主的な議会を毎年開催し、立憲主義の確保に努めた。1634年には議会の決定により地方制度として郡制が採用された。これによりバージニア植民地は8つの郡に分けられた。各郡には郡裁判所が設置され、治安判事が行政と司法にあたることになった。この制度は、他のいくつかの植民地でも採用された。 その後チャールズ1世の時代となった1639年、国王は植民地議会を正式に承認した。
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