王風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 05:19 UTC 版)
王というのは周の東都洛邑で、その範囲は畿内六百里四方の範囲だという[誰?]。周の初めの頃の状況は、文王は豊という地(現在の陝西省西安市豊水西岸付近)に都を置いたが、武王が殷を滅ぼした後、豊からさほど離れていない鎬(現在の陝西省西安市の西)を都とした[要出典]。周公がどの諸侯からも等距離の地ということで洛邑を諸侯に朝見するための場所と定めた[要出典]。これより豊・鎬を一まとめにして西都と呼び、洛邑を東都と呼んだ[要出典]。以来、短期間を除いて歴代周王は西都に居住した[要出典]。西周の末、幽王が褒姒を溺愛して伯服を生んで、彼を後継にするために、申后と太子の宜臼(ぎきゅう)を廃立した[要出典]。そのため生命の危険を感じ、宜臼は母の里、中国に亡命した[要出典]。申侯は怒り、犬戎の援護を得て、周を攻め、幽王を殺してしまった[要出典]。紀元前770年、晋の文侯・鄭の武公は申に出向き宜臼を天子として迎えた[要出典]。これが平王である[要出典]。平王は遷都し、東都つまり洛邑に都を置いた(これを周の東遷と呼び、これ以前を西周といい、これ以後を東周という)[要出典]。 ここの王風は東遷(天子が遷都し[要出典]、東都つまり洛邑に都を置くこと)以降、かつその東周の領地内の詩を集めた[要出典]ものである。都を移さざるを得ない状況[要出典]下、王室に昔日の勢いすでに無く、王室といえども普通の諸侯と変わらない勢力となった[要出典]。したがって、東遷以降の詩は雅と呼ばず諸国なみに風と称すのである[要出典]。しかしながら王号はまだ存続していたので周風と言わず王風という[誰?]のである。 上の周王朝の詩ながら雅とせず風とする説はもともと鄭玄の『詩譜』に基づき朱子もそれを踏襲したものであるが、鄭漁仲の説に近い作者の階級による違い、つまり雅は士大夫の作、風は在野、民間の人の作とする考え方に傾いている。
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