王領から都市へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:55 UTC 版)
ランゲンツェンは、1021年にハインリヒ2世王によってヘルツォーゲンアウラハとともにバンベルク大司教(ドイツ語版、英語版)に寄進された。彼はこの直前に Chunrad伯からこの地を取り戻していた。それ以前の所有関係は明らかでない。 13世紀、ニュルンベルク城伯はその支配地域を精力的に拡大していた。ランゲンツェンも1248年頃にツォレルン家(後のホーエンツォレルン家)の所有となった。これに伴って、しばしば行政・司法の拠点として利用されていたこの地域に、新たな行政区画が設けられた。ランゲンツェンも独自のアムト(地方行政区画)の所在地となった。 この集落は、オーベルンツェン(ドイツ語版、英語版)、ウンテルンツェン、ツェンハウゼン(ノイホーフ・アン・デア・ツェン(ドイツ語版、英語版)近郊)と区別するために、13世紀に初めて Langencenne と表記された。その後、ランゲンツェンは市場開催権も獲得した。 ランゲンツェンは1360年頃に都市権を獲得した。この頃に重罪刑事裁判所がカードルツブルクからランゲンツェンに移転した。これによりこの街は、以前から王領として保持していた下級裁判権の他に、上級裁判権も有することとなった。これに基づき、ランゲンツェンで重大な犯罪が裁かれ、死刑が宣告され、執行されたと推測される。ランゲンツェンの東に位置するガルゲンベルク(Galgen = 絞首台)が今でもこれを想起させる。この上級裁判所の責務と運用については、「Brandenburgische[n] Peinliche[n] Halsgerichtsordnung」(直訳: ブランデンブルクの重罪刑事裁判法)に規定されている。これはブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯カジミールとゲオルクが「Bambergischen Peinlichen Halsgerichtsordnung」に倣って公布したもので、後に皇帝カール5世が1530年のアウクスブルク帝国会議で公布したカロリーナ刑事法典(ドイツ語版、英語版)により補完された。この頃も多くの裁判が行われ、近親相姦、故殺、窃盗、謀殺により死刑が宣告された。1569年から1592年までの間に12件の魔女裁判が行われ、10人の女性と1人の男性が魔女/悪魔として火刑に処された。 本市は皇帝カール4世から1361年1月20日に貨幣鋳造権を授けられた。これによりランゲンツェンは中世都市のすべての特権を得て、この地域の重要な中心的都市となった。 1382年、ランゲンツェンに病院が設立された。病院の建物の現存する最も古い部分は1536年に建設された南の本翼部分である。創設者は、おそらく、当時バンベルクの聖堂参事会員であったヨハネス・フォン・ゼッケンドルフである。 都市戦争の間、ランゲンツェンは1388年に行軍する軍隊によって焼き払われた。1280年に建設されたマリエン教会も完全に焼失した。教会跡から救出された木製のマリア像だけが、煤で黒くなったものの無傷であった。こうしてこの「黒い聖母」は、宗教改革の後も1580年まで巡礼の目的地となっていた。この像は1842年に売却され行方は判っていない。 1414年付の文書が、辺境伯から指名されたフォークト(代官)がランゲンツェンにいたことを証明している。この都市代官区にはランゲンツェン自身の他に、ブルクグラーフェンホーフ、デュルンブーフ、デュルンファルンバッハ、ハイナースドルフ、ホルバッハ、カイデンツェル、キルヒファルンバッハ、ラウベンドルフ、ローエ、オーバーウルゼンバッハ、ラインドルフ、レッツェルフェムバッハ、ゾイケンドルフ、ジーデルバッハ、ファイツブロンが含まれた。 1464年に、アムト・カードルツブルク、アムト・ランゲンツェン、アムト・ロースタールがオーバーアムト・カードルツブルクに統合された。この中でランゲンツェンは都市権を有する唯一の都市であった。
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