北方各派の間で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/18 17:38 UTC 版)
1920年(民国9年)7月、安直戦争が勃発すると、安徽派の甘粛督軍張広建を駆逐する「甘人治甘」運動に与した。張の失脚後、馬は甘粛督軍の地位を狙ったが、陸洪濤ら漢族軍人たちとの対立を引き起こしてしまう。結局北京政府の調停により、蔡成勲が後任の甘粛督軍となった。馬は代わりに綏遠都統に任命されているが、これに不満を抱き、さらに陸との対立も激化して、双方の衝突に至った。最終的に、子の馬鴻逵が代理寧夏護軍使となることで馬福祥も妥協し、綏遠へ赴任した。 その後、直隷派と奉天派の対立では、両面的な態度をとる。しかし、1924年(民国13年)9月の第2次奉直戦争では、当初直隷派に属し、馮玉祥率いる第3路軍に加わった。馮による北京政変(首都革命)では、馮に追随して、直隷派を撃破している。以後、馮率いる国民軍との協調姿勢をとったが、馬福祥は、次第に各種権限を剥奪されていった。1925年(民国14年)に西北辺防会弁へ異動させられている。
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