ポーランドとスウェーデンとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 08:59 UTC 版)
「アレクセイ (モスクワ大公)」の記事における「ポーランドとスウェーデンとの戦争」の解説
ポーランドが内戦に入り諸外国の侵略を受ける事態(大洪水時代)に陥ると、反乱者であるウクライナ・コサックの首長ボフダン・フメリニツキーと結んで、1654年にポーランド領ウクライナ方面に侵攻した(13年戦争)。モスクワ軍はミンスク、ヴィルノ、リヴォフなどを次々にを陥落させたが、ワルシャワに進駐した強国スウェーデンの脅威を恐れ、1656年4月にポーランド側と休戦。翌5月からはスウェーデンと交戦状態に入った(北方戦争)。モスクワ国家は、スウェーデン軍がポーランドの大反撃に苦戦する最中を突いて、フィンランド、エストニア、ラトヴィアなど広大な領土の占領に成功した。しかしウクライナで親ポーランド派が反旗を翻し、ポーランドも停戦を破棄してきたため、この危機に対応する必要からスウェーデンと1658年末に休戦。1661年のカディス講和条約では占領中の全スウェーデン領の放棄を余儀なくされた。 その後もポーランドとの戦闘は続き、1667年になって和平が成立した。モスクワ国家は結局、この戦争での占領地域のうちドニエプル川東岸地域(主にウクライナ東部)を獲得しただけに終わった(アンドルソヴォ条約)。この戦いの間、アレクセイ、若しくはその息子がポーランド王位に就くよう試みたが(当時のポーランド王ヤン2世には子供がいなかったので、ロマノフ家から次期国王が選ばれる可能性があった)、成功しなかった。ウクライナを獲得したことはオスマン帝国との対峙を招き、1672年にはオスマン軍のウクライナ侵攻が始まったため、ポーランドの新王ヤン3世と協同してこれを迎え撃った。早くに勝敗は決したもののオスマン側の攻撃は続き、停戦はアレクセイ没後になってからだった。長期の戦争は国家財政を圧迫し、近隣諸国との関係を急速に悪化させた一方、モスクワ国家がヘーチマン国家を分断し、ポーランドの穀倉地帯を奪ったことは、モスクワ・ロシアの東欧における覇権を築く契機となった。また東欧における人文主義の中心都市の一つキエフを獲得したことは、ロシア人に西欧文化への関心を高めさせる契機となった。さらに一時的に広大なバルト海沿岸地域を占領したことは、この地域へ進出する契機ともなった。
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