ポーランドとの対立とタタールの侵攻
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「ボグダン3世 (モルダヴィア公)」の記事における「ポーランドとの対立とタタールの侵攻」の解説
ボグダン3世は即位すると直ちにポーランド王アレクサンデルの妹エリーザベトと結婚する意向を示した。しかし、領土割譲を含む二度の献納まで行ったにもかかわらずこれを拒否されたため、ボグダン3世はポーランド南部を急襲した。結局、アレクサンデルは1506年にモルダヴィアがカトリック教会により寛容な態度を取ることを条件に和平に応じた。しかしアレクサンデルが亡くなりジグムント1世の代になると和平は破られ、双方が互いの領土に侵攻するようになった。その後、 ボグダン3世は1509年10月にドニエストル川での戦闘で大敗を喫したため、1510年1月17日にその要求を放棄することを認めて和議を結んだ。 同年には、モルダヴィアはクリミア・タタールの侵略を受け、国土は大いに荒廃した。このとき、実に74,000人が奴隷として連れ去られたと言われている。さらに1511年には国土の大部分を占領されるに至った。ポーランドも1506年のタタール侵攻からの復興途上であったが、ボグダン3世を支援すべく援軍を送り、この甲斐もあってボグダン3世は1512年5月にタタールに勝利して国土を奪還した。
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