ポーランドでの戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:40 UTC 版)
「第1親衛戦車旅団」の記事における「ポーランドでの戦闘」の解説
一連の戦闘が終わると、旅団は予備部隊へ配置換えとなった。5月には第11親衛戦車軍団(ロシア語版)麾下となり、従来の偵察中隊に代わって偵察小隊が組織された。6月1日、第2戦車大隊司令官にウラジーミル・ボチコフスキー(ロシア語版)が任命された。 1944年7月上旬、旅団はリヴォフ=サンドミール作戦に加わるため、スタニスラーウ州オベルティン(ロシア語版)地区からドゥブノ地区へ進軍した。このとき、旅団は付属する第400親衛自走砲連隊、第405親衛高射砲師団、2個砲兵連隊、第15舟橋大隊、第133親衛工兵大隊および中隊とともに、軍団の先遣部隊を構成していた。 7月14日、軍団の先遣部隊がシプコフシシナ付近でドイツ軍と交戦状態に至った。絶え間ない攻撃でドイツ軍の防衛線を破った軍団は、7月18日にポリツク市を、翌19日にはブク川周辺地域を制圧し、ソ連=ポーランド国境付近に迫った。一連の戦闘では、旅団の戦車兵としてティシシェンコ、ベリャエフ、ジュマベコフ、イリイン、ヴァクレンコ、モセルチュクが、工兵としてシャマルディンが主に活躍した。第1戦車大隊はさらに攻勢を継続し、リュビチャ=クルレフスカの町を解放した。7月24日、ニェレプコフィツィ付近でサン川を渡河した軍団は、第21自動車化狙撃兵師団とともに、旅団の第1戦車大隊がキセリョーフとオジャニスクを奪還した。あわせて、ヤロスラフより西の幹線道路2本と鉄道路線1本を分断した。 7月29日、旅団は西部方面へ急速に進軍し、ヴィスワ川沿岸のツァグナユフおよびバラヌフ=サンドメルスキー(ロシア語版)に移動した。翌日、旅団の自動車化狙撃兵部隊はヴィスワ川を渡河し、橋頭堡を確保した。7月31日、舟橋を利用して戦車部隊も次々に渡河し、ヴィスワ川西岸のスロニュフで防衛線を展開した。 8月20日まで、旅団はサンドミール橋頭堡(ロシア語版)で奮戦した。一連の戦闘ではペトルークやコトフなどが活躍し、旅団の戦車中隊長ビャコフはティーガー1両、エレファント2両を撃破する戦果をあげた。7月14日から8月20日の間に、旅団は400キロメートルを移動し、3本もの河川を越えて転戦した。作戦中、旅団司令官のゴレロフ親衛大佐が負傷によって第8親衛機械化軍団の副司令官に転属となったため、短期間ではあるがヴェニアミン・ミンドリン親衛大佐とアレクサンドル・ボロディン親衛大佐が旅団司令官を拝命している。9月25日以降は、ハルハ河の戦闘への参戦経験があるアブラム・テムニク(ロシア語版)親衛大佐が、旅団司令官を務めることになった。 8月10日、ドイツ軍との戦闘において模範となる指揮を執り、プシェムィシル市とヤロスラフ市を攻略した第1親衛戦車旅団の功績を称え、ソビエト連邦最高会議幹部会令により2等スヴォーロフ勲章が授与された。 8月末、旅団はリヴォフ州のネミロフ(ロシア語版)市に入城し、そこで新たな人員と装備を補充した。戦車部隊には、最新の85ミリ戦車砲を搭載したТ-34-85(ロシア語版)が配備された。9月に入ると、第1親衛戦車軍は予備部隊に転属となり、11月からは第1白ロシア戦線(ロシア語版)に編入された。 1945年、旅団はヴィスワ=オーデル攻勢に加わることになった。1月15日にマグヌシェフ橋頭堡(ロシア語版)を拠点として突破口を開くと、わずか2日間で200キロメートル以上の距離を移動し、ポーランド国内の多くの集落をドイツ軍から解放した。アンドラニク・マヌキャン(ロシア語版)親衛大尉は、斥候部隊を駆使してツェツィリュフカ村(現ポーランド・ヴァルカ南部)付近で敵の後方に侵入し、ドイツ軍将校を捕虜にとって旅団司令部に引き渡した。2日後、斥候部隊はエジュフの岬(現ポーランド・ウッチ東部)を制圧し、本隊が合流するまでその地を守り抜く活躍を見せた。1月18日には、ポッデンビナ(現ポーランド・トゥシン(ロシア語版))の駅で駅長を拘束し、ドイツ軍列車の運行情報を聞き出すことに成功している。 1月16日、イヴァン・ゴロヴィン(ロシア語版)親衛上級中尉率いる戦車中隊は、ノヴェ=ミアスト=ナト=ピリツォン(ロシア語版)郊外のピリツァ川(ロシア語版)を真っ先に渡河し、敵が川の西岸に築いた防御陣地を制圧して、これが敵の手に落ちることを防いだ。。戦後記された回想録によれば、駅では40両以上の貨物列車(そのうち1両にはティーガー戦車が積載されていた)が停車し、軍用飛行場では輸送機が離発着している、誰も予想しないタイミングで旅団の戦車は町に侵入した。戦車部隊がプラットホームに向けて砲撃を始めると、停車中の列車は町を離れようと動き出した。これを防ごうとしたウラジーミル・ボチコフスキー(ロシア語版)の命令によって、アレクセイ・ドゥホフ(ロシア語版)親衛中尉、ボンダル親衛少尉、ボリシャコフ親衛中尉の操るT-34が最高速度で先頭車両に追いつくと、ボンダル車両の操縦手は全速力で走る蒸気機関車に土堤の上から突っ込んで横転させた。他の戦車も、町からの避難を図った列車全てを停車させることに成功した。 ピリツァ川を越えて西岸の橋頭堡を防衛した勇気と英雄的行動が評価され、一連の戦闘の後、以下の7人の戦車兵にソ連邦英雄称号が贈られた。 戦車小隊司令官ヴャチェスラフ・ベリャエフ(ロシア語版)親衛上級中尉 戦車指揮官アレクセイ・ボドロフ(ロシア語版)親衛少尉(追贈) 戦車中隊司令官イヴァン・ゴロヴィン(ロシア語版)親衛上級中尉 戦車中隊司令官アレクセイ・ドゥホフ(ロシア語版)親衛上級中尉 戦車大隊司令官ウラジーミル・ジューコフ(ロシア語版)親衛少佐 戦車指揮官ウラジーミル・テゲンツェフ(ロシア語版)親衛少尉 機械技師・操縦士アレクサンドル・チホミロフ(ロシア語版)親衛上級軍曹 1月22日、旅団はポーゼン東部の郊外に移動した。旅団は市街戦に参戦せず、迂回して敵の通信を妨害しながらヴァルタ川を渡河して、1月26日にドイツ=ポーランド国境の町であるケーブニツとノイドルフに到着した。1月28日の夜、オブラ川(ロシア語版)を突破すると勢いそのままに敵後方へ突入し、ボムスト、ラゴフ、ケムナート(ロシア語版)の防衛部隊を打ち破って2月1日にはフランクフルト・アン・デア・オーダーまで進軍した。17日間の戦闘で、旅団はヴィスワから700キロメートルの道のりを移動している。この時点で、もはやベルリンまでは70キロメートルしか離れていなかった。 しかし、急遽増援部隊を投入し、航空機や砲撃による支援を受けて反攻に打って出たドイツ軍の前に第1親衛戦車旅団は退くしかなかった。政治将校であるアントン・ルージン中佐はこのときの戦闘で戦死し、かつての旅団司令官であるゴレロフも少し前にポーゼン近郊で戦死している。ソ連邦英雄であるボチコフスキーが指揮する第2戦車大隊はその中であっても模範的な行動をとり、ドゥホフ親衛上級中尉やゴロヴィン親衛上級中尉の戦車中隊やローゼンベルク、フョードロフ、ペトルークの各中隊が活躍した。第1親衛戦車旅団の偵察主任であるアンドラニク・マヌキャン(ロシア語版)親衛大尉と、戦車小隊司令官であるユーリー・スヴャシシェンコ(ロシア語版)親衛中尉には、ソ連邦英雄称号が贈られている。 一連の戦闘で、旅団は32両(18両が炎上、14両が撃破)の戦車を喪失した。ソ連側の資料によると、敵の損失は戦車60両、航空機76機、火砲218門、対戦車砲187門、迫撃砲192門、車両1500台、兵士・将校9000人以上であり、ソ連陣営は航空機17機、車両2877台、火砲204門、貯蔵庫49ヶ所、捕虜3万人以上を奪い取ったとされる。 1945年4月5日、第1親衛戦車旅団はブランデンブルク県(ロシア語版)侵攻の際に、司令部の任務を模範的に遂行して勇気を示したことが評価され、ソビエト連邦最高会議幹部会令によって2度目のレーニン勲章が授与された。 1945年2月、ドイツ軍の捕虜で3度目の脱走に成功した、アメリカ軍のジョセフ・ベイル軍曹が旅団の第1戦車大隊のもとにやってきた。副官のアレクサンドラ・サムセンコ親衛大尉はベイルの後方への移送を提案したが、本人による説得もあって、赤軍とともに戦うこととなった。戦車大隊にはアメリカのM4中戦車も配備されており、ベイルとの共闘が十分に生かされた。ベイルは、アメリカとソ連の両国で戦った唯一の軍人とされ、2008年から2011年まで在ロシアアメリカ合衆国大使を務めたジョン・ベイル(英語版)の父親でもある。別の部隊で戦車部隊を指揮していた旅団の連絡将校であるサムセンコは、3月3日に戦闘中の負傷によって戦死している。 ヴィスワ=オーデル攻勢において、ソ連の戦車部隊が町に入城する様子 ISU-122に搭乗するソ連の自走砲隊員を歓迎するウッチの住民たち
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