ポーランドでの活動
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「カジミエシュ・プワスキ」の記事における「ポーランドでの活動」の解説
プワスキのフルネームは、カジミェシュ・ミハウ・ヴァツワフ・ヴィクトル・プワスキ・ヘルブ・シレポヴロン(Kazimierz Michał Wacław Wiktor Pułaski herbu Ślepowron)であり、ヴァルカ (ポーランド)(Warka)の近くヴィニャルィ(Winiary)で1746年3月4日(3月6日の説あり)に生まれた。プラスキの父ユゼフ・プワスキ(Józef Pułask)は町の代官(starosta)であり、当時最も著名な住人の一人であった。プラスキは若いときにワルシャワに出て、テアティン(Theatines)のカレッジで学んだ。 1762年ポーランド王の封臣で、当時の国王アウグスト3世の息子の一人だったクールラント公カールの給仕として働き始めた。しかし、ミタウに着いていくらも経たないうちにロシア軍が一帯を占領し、公爵家は宮殿から追い出された。プラスキはワルシャワに戻り、1764年に新しいポーランド君主スタニスワフ2世の臣下に加わることになった。 熟練した軍隊の指揮者として、また名家の息子として、1768年2月29日、プラスキは父とともにバール連盟軍の設立者の一人となった。この同盟はポーランド・リトアニア連合王国からロシアの支配を排除することを目ざしていたが、ポーランド駐在ロシア軍が鎮圧に乗り出した。ウォムジャ出身士族として、プラスキは同盟軍の優れた指揮官の一人となった。その年、プラスキはベルディシェフの修道院で包囲され、圧倒的多数の敵に対して2週間持ち堪えた。ロシアの捕虜となったプラスキは、二度と同盟軍に戻らないと誓約させられたのちに釈放された。 しかしプワスキは、そのような強制された誓約に強制力はないものと考え、更に4年間ロシアに対する抵抗を続けた。1769年、プラスキはオコピィ要塞(現在のウクライナ、テルノーピリ州)でまたも大部隊に包囲されることになった。しかしこのときは、勇敢に反撃を行ったあとでロシアの囲みを破り、部隊と共にオスマン帝国に逃げ込み、リトアニアに戻った。プワスキは多くの士族を同盟に参加させ、ロシアへの抵抗を扇動した。 1770年9月10日から1771年1月9日にかけて、プワスキはヤスナ・グラ修道院の包囲戦でポーランド軍を指揮し、防衛に成功した。1771年11月、プラスキは囚われの身となっていたポーランド王奪回計画の主要メンバーにもなった。しかしこの試みは失敗し、同盟もいくらも経たないうちに解散した。プラスキは民衆の敵とされ、国王殺害を謀った廉で欠席裁判のまま死刑を宣告された。プラスキは国を離れたが、ヨーロッパに彼を受け入れてくれる国はなかった。トルコに短期間滞在した後、プラスキはフランスに不法入国し、そこでラファイエットにアメリカ行きを勧められた。
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