ポーランドでの議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 17:49 UTC 版)
スラヴ語族であるポーランド語が社会の事実上の共通言語でありながらその市民の血統や文化における多民族的性格から、ロシアやボヘミアやバルカン半島で盛んだった汎スラヴ主義運動とは明確な一線を画していたポーランドにおいては、このスローガンは19世紀中頃にはすでに使用されており、それ以降、ドイツ騎士団と中世の東方殖民が行われたことを引用、それにより地政学的な計画の疑いの存在する国民性とドイツ国民の「根本的統一」らを連想することにより、西暦1000年から続いた歴史の傾向を暗示することに用いられた。スローガンは特に敵としてのドイツの存在が、ポーランドという国を苦しめる役割を果たしているという国家的議論と結びついた。 カトリックに向けられた文化闘争方針と共に、ドイツ帝国は「東方への進出」に志願したドイツ人をその東(主にカトリック国家としての)、ポーランドの領域に殖民を進めようとした。このドイツ人の試みは志願者のあまりの少なさに失敗に終わったが、現在発行されているポーランドの百科事典には、1896年にこのスローガンを「ポーランドの人々を私物化するためのドイツ人の東への移動」と定義付けたものが記載されている。また、この用語は汎スラブ主義と結び付けられる。 ただしポーランドは汎スラヴ主義とは距離を置き、ポーランド・リトアニア共和国の設立理念に基づいた独自のコスモポリタニズムを貫いた。1848年にボヘミアのプラハで開催された世界スラヴ会議、1867年にロシアのモスクワで開催された世界スラブ会議のいずれにも、ポーランド人の社会組織は代表団を送らなかった。ポーランド社会では排他的民族主義でなくコスモポリタニズムが保守本流思想の中核をなすという、他国に例のみられない非常に特殊なイデオロギー構造がある。
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