ポーランドから中東へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 22:52 UTC 版)
「シャルル・ド・ゴール」の記事における「ポーランドから中東へ」の解説
戦後はポーランドの軍事顧問となり、同国へ赴任した。当時ポーランドは革命ロシア赤軍の侵攻を受けており、首都のワルシャワまで迫られていた(ポーランド・ソビエト戦争)。ド・ゴールはこの戦いで活躍し、「ポーランド軍少佐」の称号を得ると共に、ポーランド政府から勲章も授与された。1921年にド・ゴールは帰国し、サン・シール陸軍士官学校の軍事史担当教官として勤めた。同年4月7日にイヴォンヌ・ヴァンドルーと結婚した。この年に弟のピエール・ド・ゴールがユニオン・パリジェンヌへ入行した。1922年11月にド・ゴールがフランス陸軍大学校へ入学した(1924年10月に卒業)。そして数年の間ペタンに買われ軍事教育を担い、「戦闘行為と指揮官」という特別講演も行った。1926年にレイモン・ポアンカレ内閣が預金供託金庫と別個の独立償却金庫を廃して「国防証券管理・たばこ産業経営・公債償却のための独立金庫」を創設し、旧オスマン帝国領から莫大な財源を得た。1929年11月にド・ゴールがベイルートキャンプで軍事情報を管理した。1931年11月にパリの軍事最高会議事務局に入る。1932年12月にド・ゴールは中佐となり、軍事最高会議事務長に就任した。1934年に『機甲化軍にむけて』、1938年に『フランスとその軍隊』を執筆した。アドルフ・ヒトラーはド・ゴールの著書である『職業的軍隊を目指して』を読んで感銘を受けたが、著者はアンリ・ジローだと勘違いしていた。前後して1934年にエルヴェ・アルファンがオスマン債務管理局の廃止されたトルコに派遣されている。1937年12月に大佐となった。
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