エディサンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > エディサンの意味・解説 

エディサン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/06 16:46 UTC 版)

エディサン

  エディサンの地図(18世紀)。

オデッサ・オペラ劇場。

エディサンウクライナ語:Єдисанルーマニア語:Edisanロシア語:Едисанドイツ語他:Jedisan英語他:Yedisan)は、ウクライナの歴史的地名である。現在のウクライナ南西部とモルドバ南東部(沿ドニエストル南部)を合わせた歴史的地名。黒海の北、ドニエストル川ドニプロ川の両河川に挟まれた区域。ブジャクベッサラビアの東、ポジーリャザポロージャの南、タウリダの西に位置する。

概要

中世の頃、ウーリチペチェネグ、後にクマン人(ポロヴェツ)が暮らしていた。その後13世紀モンゴル帝国による侵略を経てジョチ・ウルス(金帳汗国)の支配下となった。

15世紀にはリトアニア大公国の領土となり、ディークラ(Dykra;「東の地」の意)と呼ばれるようになった。それからオスマン帝国の諸侯のクリミア・ハン国の領域となった。

中央アジアよりクバン地方へ移住を余儀なくされたノガイ・オルダの一部が、1724年この地域にも西遷してきてエディサンと呼ぶようになった(これ以前の歴史地図にエディサンの名が現れるのは正しくない)。

しばしばオスマン帝国のシリストラ州(エジ州)の一部となり、ハジベイ要塞(現オデッサ)とエジ要塞(現オチャーキウ)が中心地となった。また、オスマン帝国に隷属するノガイとロシアの後ろ盾を持ったザポロージャ・コサックの対立の場でもあった。

エカチェリーナ2世治める帝政ロシアがこの地域へ拡張を始めたのが18世紀末であり、露土戦争 (1768年)の結果1774年には南ブーグ川以東のエディサンがロシアへ併合された。露土戦争 (1787年)ヤシ条約で終結し、ロシア国境はドニプロ川まで進んだ。ノガイ人は激減し、この地を去り東へと散っていった。ロシアの領有の後の1794年に建設された都市がオデッサである。この地域は新ロシアの一部として主にロシア人ウクライナ人を中心とし民族ドイツ人も含んだ入植者が移り住み、ヘルソン県という行政区域となった。現在のウクライナでは一部がそれぞれオデッサ州ムィコラーイウ州となっている。

参考文献

  • (日本語) 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12.(新版世界各国史 ; 20)

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エディサン」の関連用語

エディサンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エディサンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエディサン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS