露土戦争 (1787年-1791年)
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露土戦争(ろとせんそう、ロシア語: Русско-турецкая война、トルコ語: Osmanlı-Rus Savaşı、英語: Russo-Turkish War)は、1787年8月(ユリウス暦・グレゴリオ暦とも)から露暦(ユリウス暦)1791年12月(西暦(グレゴリオ暦)1792年1月))までつづいたロシア帝国とオスマン帝国のあいだの戦争。一般的には「第二次露土戦争」と称されることが多いが、ロシア・オスマン間では何度も戦争が起こっており、17世紀以前のものも含めて「第六次」が冠されることもある(中国語版「第六次俄土战争」参照)。
注釈
- ^ 「新ロシア」とは、現在のヘルソン州にあたる地域であるが、戦後にはムィコラーイウ州、オデッサ州の一帯を加えた。なお、この3州は、今日では「南ウクライナ」と総称されることが多い。
- ^ 1784年にはウクライナにおいても農奴制が導入され、新規移住も禁止されたが、それに先だつ領主農民の数がきわめて少数であったため、農奴制は限定的なものにとどまった。土肥(2002)pp.90-91
- ^ エカチェリーナ2世はポチョムキンに対し、それまでの功績を賞し、帝都サンクトペテルブルクにタヴリーダ宮殿を下賜し、「ダヴリーダ公」の称号をあたえた。ダヴリーダ宮殿の建設は1783年にはじまり、6年の歳月をかけて完成している。
- ^ ポチョムキンの急死はマラリアによる感染症と考えられている。新人物往来社編『ロマノフ王朝』(2011)pp.64-65
- ^ アジアにおける両国の境界はクバン川のままで変わらなかった。
- ^ エカチェリーナ治世下で獲得した領土は約50万平方キロメートルにおよんでいる。チャノン&ハドソン(1999)p.44
出典
- 1 露土戦争 (1787年-1791年)とは
- 2 露土戦争 (1787年-1791年)の概要
- 3 脚注
- 露土戦争 (1787年-1791年)のページへのリンク