内容と影響
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造船奨励法は、一定の基準を充たす優秀船の建造を行った日本の造船所に対し、造船奨励金と称する補助金を交付した。制定当初の基準では、総トン数700トン以上で造船規程に適合した鋼製または鉄製の船の建造が対象であった(第2条)。奨励金の交付額は、総トン数1000トン未満の場合には1トン当たり12円、1000トン以上の場合には1トン当たり20円とし、船体だけでなく搭載するエンジンもあわせて製造した場合には1馬力につき5円が追加交付された(第3条)。1909年(明治42年)の改正後は総トン数の最下限を1,000トンに引き上げ、鉄製船は除外されたほか(改正後第2条)、艤装品も原則国産が要求された(改正後第4条)。奨励金率は11-22円の範囲で命令により定めることとなり(改正後第3条)、客船・貨物船の区別および船の資格の差に応じて総トン数1トンあたり11-20円に細分化されている。なお、奨励金の詐取に関して罰則規定が当初から置かれている(第5条)。 本法の目的である船舶の国産拡大は、一定の成果を収めた。1898年(明治31年)には日本での年間汽船建造量が1万トンを超えた。1899年(明治32年)には、さらなる間接奨励策として航海奨励法が改正され、航海奨励法による助成額が輸入船は国産船の半額に引き下げられた。この航海奨励法改正は海運業にとって大きな打撃となった一方、造船業にとっては有力な支援であった。国内造船所の受注増加で1901年(明治34年)には汽船建造量が3万トンに達し、初めて輸入船量を上回った。1909年(明治42年)に制定の遠洋航路補助法では助成対象が原則として国産船に限られ、同年限りの航海奨励法の廃止と併せて、船舶の国産化が一段と進んだ。法令施行中に適用を受けて製造された船数は267隻、総トン数約100万トンに上った。総トン数999,322トン、実馬力763,868馬力、奨励金支出額は23,099,499円に達している[要出典]。
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内容と影響
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講和条約は、露暦1791年12月29日(回暦1206年5月14日)、当時はオスマン統治下にあったモルダヴィアのバルフイ川(en)沿岸のヤッシーで結ばれた。ロシア側の代表は当初ポチョムキンのはずであったが、1791年4月にポチョムキンが急死したためアレクサンドル・ベズボロドコ公爵が全権を務めた。こうして、オスマン帝国セリム3世のザドラザム(大宰相)であったユスフ・パシャ(トルコ語版)とロシア代表ベズボロドコの間で講和が調印された。 この条約では、1783年に宣言されたクリミア・ハン国のロシアへの併合が承認され、エディサン地方のロシアへの割譲が決まった。これにより、ヨーロッパにおけるロシア・トルコ両国の境界は従来より西のドニエストル川に移った。ロシアは、かつてジョチ・ウルスによって広大なロシア平原の主要部を支配したバトゥの末裔であるクリミア・ハン国を併合したことにより、モスクワ大公国の時代から何世紀にもわたってつづいたクリミアのタタールとの戦いを終結させ、黒海北部沿岸全体の領有を果たした。エカチェリーナ2世はピョートル1世の失った地域の奪回に成功したのである。 肥沃ではあるが人口の希薄な「新ロシア」には戦争以前から国内諸県からの逃亡農民の入植が進み、犯罪者の入植もおこなれていた。逃亡農民の入植には特に逃亡元の領主からの抗議や反対があったが、入植はそれを押し切るかたちでおこなわれた。この地域は、大穀倉地帯として発展した。 一方、トルコは黒海の制海権を完全に失い、ロシアは黒海での自由航行が可能となった。黒海沿岸には、1794年に建設された貿易都市オデッサをはじめとしてヘルソンやニコラーイェフ(ムィコラーイウ)などの港湾都市がつぎつぎに建設された。1790年代における黒海貿易はロシアの対外貿易全体の約2パーセントをしめるにすぎなかったが、その後、急速な成長を示している。19世紀中葉には、オデッサはヨーロッパ地域最大の穀物輸出港として繁栄したが、その農産物の多くは「新ロシア」において生産されたものであった。 ヤッシー講和ののちもロシアとトルコはしばしば争ったが、多数の異民族をかかえるロシアの新規獲得地では、多くの住民がロシア帝国の支配に反発した。ロシアは、こののちもグルジアの保護国化(1801年)やブカレスト条約によるモルダヴィア公国領ベッサラビアの獲得(1812年)など、地中海東部地域に進出した。なお、ヤッシー条約に先立って、オーストリアとオスマン帝国のあいだでシストヴァ条約(en)が結ばれたが、ここでセルビア人は依然としてオスマン帝国の支配にとどまることとなった。これは、のちにセルビア蜂起の要因のひとつとなっている。 東方問題に関しては、トルコに対するロシアの優位が決定的となって、ロシアのバルカン半島進出が顕著になる一方、ロシアの利害とオーストリアの利害が対立するようになり、両国の協調体制はくずれた。そのため、バルカン半島はポーランド分割のような状況にはならなかったのである。
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内容と影響
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「メトディウスの予言書」の記事における「内容と影響」の解説
メトディウス予言書が描き出す未来像は以下のようなものである。イスラム勢力によるキリスト教国が制圧され苦しめられるが、「終末の皇帝」が現れ平和をもたらす。その後出現するゴグとマゴグは神の使いに滅ぼされるが、皇帝もゴルゴダの丘へ赴いて帝冠を置き、死を迎える。この後反キリストが君臨するが、キリストの再臨によってそれが終わり、最後の審判が行われる。 この作品にはキリスト教的終末論の多くのテーマが登場している。すなわち反キリストの興隆と没落、ゴグとマゴグの侵攻、世の終わりに先行する数々の艱難などである。加えて、ティブルティナ・シビュラから借用された新たな要素として、救世主となる「終末の皇帝」が加わっている。これは中世の黙示文学的作品の中では中心をなす人物像であり、メトディウス予言書によって普及した。
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内容と影響
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「ロンドン条約 (1867年)」の記事における「内容と影響」の解説
条約の直接的影響は第1条のとおり、オランダ王国とルクセンブルクがオラニエ=ナッサウ家を王家にして同君連合を組むことを再確認した。 この同君連合は1890年にウィルヘルミナがオランダ女王に即位したときまで続いた。ルクセンブルクではサリカ法が採用されていたため、彼女はルクセンブルク大公になれなかった。彼女の代わりにナッサウ=ヴァイルブルク家(現ルクセンブルク=ナッサウ家)が大公位を継承し、ルクセンブルクが自らの王家を戴くようになった。 ルクセンブルク危機(英語版)はフランス皇帝ナポレオン3世がオランダ王ウィレム3世からルクセンブルクを購入しようとしたことで勃発した。このとき、ルクセンブルクをオランダの支配下に置いて、フランスから守ることがプロイセン王国の最優先事項となっていた。 また、第一次ロンドン条約で認められたルクセンブルクの永世中立はこの条約で再確認された。1839年の条約に署名しなかった国が(永世中立を宣言したベルギーを除いて)ルクセンブルクの中立を保障した。 ルクセンブルクの中立を保証するために、ルクセンブルク市の西にある、「北方のジブラルタル」として知られた要塞群(英語版)は取り壊され、再建を禁止された。ただし、ルクセンブルク市の東にある中世以来の要塞は存続を許された。要塞は16年間、合計150万金フランかかり、長さ24キロメートル以上の地下防御が壊され、4ヘクタールにわたる砲郭、砲台、バラックが破壊された。この要塞群の遺跡は現代でも残り、ルクセンブルクの世界遺産として登録された。 さらに、1815年のウィーン会議の定めによりルクセンブルクに駐留していたプロイセン軍は撤退することとなった。 7週間戦争によりドイツ連邦は崩壊した。ドイツ連邦の加盟国のうちルクセンブルク大公国とリンブルフ公国(英語版)はオランダ王を(ルクセンブルク大公とリンブルフ公として)元首としていた。連邦崩壊後の状況を明らかにするために、このロンドン条約では連邦の終焉を再確認、リンブルフがオランダに併合されることを認めた。 条約により独立したルクセンブルク大公国はオランダと同君連合を組んでいたが、ドイツ関税同盟に再加盟し、同君連合が解消されたずっと後の1919年1月1日まで続いた。
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