ヤッシーの講和とは? わかりやすく解説

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ヤッシーの講和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 15:35 UTC 版)

ヤッシーの講和(ヤッシーのこうわ、ロシア語: Ясский мирный договорトルコ語: Yaş Antlaşması英語: Treaty of Jassy)は、ロシア帝国オスマン帝国のあいだで結ばれた条約である。


注釈

  1. ^ 「新ロシア」とは、現在のヘルソン州にほぼ相当し、戦後はムィコラーイウ州オデッサ州も加わった。今日では、この3州は「南ウクライナ」と総称されることが多い。
  2. ^ エカチェリーナ2世はポチョムキンに対し、それまでの功績を賞し、帝都サンクトペテルブルクタヴリーダ宮殿を下賜し、「ダヴリーダ公」の称号をあたえた。ダヴリーダ宮殿の建設は1783年にはじまり、6年の歳月をかけて完成している。
  3. ^ 「ギリシア計画」とは、バルカン半島にコンスタンティノープルを首府とするギリシア帝国を建設し、その皇帝にエカチェリーナの孫にあたるコンスタンチン・パヴロヴィチを戴こうという計画。発案したのはポチョムキンともいわれている。土肥(1994)p.90
  4. ^ ポチョムキンの急死はマラリアによる感染症と考えられている。新人物往来社編『ロマノフ王朝』(2011)pp.64-65
  5. ^ トルコとの講和が成立した1791年、演劇の好きなエカチェリーナ女帝は、自作の史劇『オレーグ公』をサンクトペテルブルクの市立劇場で公演させた。そのとき動員された俳優は700名を超えたといわれる。相田(1975)p.404
  6. ^ アジアにおける両国の境界はクバン川のままで変わらなかった。
  7. ^ エカチェリーナ治世下で獲得した領土は約50万平方キロメートルにおよんでいる。チャノン&ハドソン(1999)p.44
  8. ^ 1784年にはウクライナにおいても農奴制が導入され、新規移住も禁止されたが、それに先だつ領主農民の数がきわめて少数であったため、農奴制は部分的なものにとどまった。土肥(2002)pp.90-91

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