女帝としての治世とは? わかりやすく解説

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女帝としての治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:23 UTC 版)

エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「女帝としての治世」の解説

エカチェリーナ2世当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想崇拝者で、啓蒙君主自認していた。そのため、ヴォルテールディドロなどとも文通行い自由経済促進宗教的寛容教育・医療施設の建設出版文芸振興といった啓蒙思想基づいた近代化諸政策に着手した。 その集大成ともいえるのが、各身分の代表が集結して1766年開催され新法編纂委員会(ロシア語版)に提案された「訓令(ナカース)(英語版ロシア語版)」であったモンテスキューの『法の精神』やベッカリーアの『犯罪と刑罰』など、西欧啓蒙思想盛り込んだ上に、急進的な内容含んでいた訓令(ナカース)だが、当時ロシア社会未成熟な状態であり、特筆すべき成果上げことはなかった。また、新法編纂委員会もオスマン帝国との戦争始まったために無期限休会となり、そのまま再開されないままに終わったため、訓令(ナカース)の採択発効沙汰止みとなったロシア帝室の血を引かないどころか生粋ロシア人すらないエカチェリーナ貴族支持を必要とし、貴族反対する大規模な改革不可であった宮廷実情クーデター経緯知る由もない一般庶民には、ピョートル3世待望久しい成人男子皇帝であり、様々な改革もたらした救世主であったので、その非業の最期対す同情と「皇位簒奪者」の女帝対す反感もあり、その死の直後からピョートル3世僭称者何人も現れた。 1773年発生したヴォルガ川流域でのドン・コサック農民工場労働者炭鉱夫少数民族バシキール人チュヴァシ人カルムイク人)による大規模な反乱であるプガチョフの乱はその最大のものであったが、1775年には鎮圧されるまた、エカチェリーナ2世戴冠から2年後、かつての皇帝エリザヴェータ女帝幽閉されていたイヴァン6世救出しようとする試みがあったが、失敗してイヴァン6世看守殺害された。 対外政策では、オスマン帝国との2度にわたる露土戦争1768年-1774年1787年-1791年)に勝利してウクライナ大部分クリミア・ハン国併合しキュチュク・カイナルジ条約)、バルカン半島進出基礎ヤッシーの講和)を築いた南下政策)。 第1次第2次第3次ポーランド分割主導しポーランド・リトアニア地図上から消滅させた。かつての愛人ポーランド最後国王となった啓蒙思想主義者スタニスワフ・ポニャトフスキが、即位直後からポーランド近代民主主義国家にする大改革断行し1791年ヨーロッパ初の近代民主憲法5月3日憲法)を制定した事が原因となったというのもこの憲法カトリック原則事実上絶対化により、正教徒弾圧正当化したためである。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}豪放磊落派手好みエカチェリーナ2世積極的な外交政策推進した一方で対外的には啓蒙専制君主と見られることを好み紛争における仲裁者の役割をしばしば務めようとした。これはそのままロシア国際的影響力を高めということでもあった。1780年にはアメリカの独立戦争に際しては、中立国としてアメリカへの輸出推進しヨーロッパ諸国働きかけ武装中立同盟結束させた。[要出典]第一次ロシア・スウェーデン戦争ロシア艦隊フィンランド湾スウェーデン海軍敗北こそしたものの(1790年)、イギリスプロイセン仲介により講和し、ロシア国体には何の影響も及ぼさなかった。 1789年フランス革命には脅威感じ晩年には国内引き締め自由主義弾圧したフランス革命にも関心示し1791年ヴァレンヌ事件後にスウェーデン国王グスタフ3世の提唱した「反革命十字軍」の誘いにも前向きであったが(10月には軍事同盟締結する)、結成難航し露土戦争優先1792年グスタフ3世暗殺などで結成実現化せず、第一次対仏大同盟にも参加しなかった事で、エカチェリーナ2世の治世下ではフランス革命戦争への介入行われなかった。また、1791年7月当時神聖ローマ皇帝レオポルト2世ブルボン王家への援助呼びかけ回状ヨーロッパの君主国に行き渡っており(この呼びかけによりピルニッツ宣言が発せられる)、グスタフ3世の件もあってエカチェリーナ2世自身反革命協力的だったが、ちょうど卒中起こしていて動けなかった。こうした事から、フランス革命対す関心個人的に高かったといえるが、当時ロシア利害衝突する国の多くロシア脅威感じていた事から、革命積極的に関与する必要性ロシア国家としては時期的に見出せなかったといえる。[要出典]

※この「女帝としての治世」の解説は、「エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)」の解説の一部です。
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