女帝としての治世
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「エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「女帝としての治世」の解説
エカチェリーナ2世は当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想の崇拝者で、啓蒙君主を自認していた。そのため、ヴォルテール、ディドロなどとも文通を行い、自由経済の促進、宗教的寛容、教育・医療施設の建設、出版文芸の振興といった啓蒙思想に基づいた近代化諸政策に着手した。 その集大成ともいえるのが、各身分の代表が集結して1766年に開催された新法典編纂委員会(ロシア語版)に提案された「訓令(ナカース)(英語版、ロシア語版)」であった。モンテスキューの『法の精神』やベッカリーアの『犯罪と刑罰』など、西欧の啓蒙思想を盛り込んだ上に、急進的な内容を含んでいた訓令(ナカース)だが、当時のロシア社会は未成熟な状態であり、特筆すべき成果を上げることはなかった。また、新法典編纂委員会もオスマン帝国との戦争が始まったために無期限休会となり、そのまま再開されないままに終わったため、訓令(ナカース)の採択や発効も沙汰止みとなった。 ロシア帝室の血を引かないどころか、生粋のロシア人ですらないエカチェリーナは貴族の支持を必要とし、貴族が反対する大規模な改革は不可能であった。宮廷の実情やクーデターの経緯を知る由もない一般庶民には、ピョートル3世は待望久しい成人男子の皇帝であり、様々な改革をもたらした救世主であったので、その非業の最期に対する同情と「皇位簒奪者」の女帝に対する反感もあり、その死の直後からピョートル3世の僭称者が何人も現れた。 1773年に発生したヴォルガ川流域でのドン・コサック、農民、工場労働者、炭鉱夫、少数民族(バシキール人、チュヴァシ人、カルムイク人)による大規模な反乱であるプガチョフの乱はその最大のものであったが、1775年には鎮圧される。また、エカチェリーナ2世の戴冠から2年後、かつての皇帝でエリザヴェータ女帝に幽閉されていたイヴァン6世を救出しようとする試みがあったが、失敗してイヴァン6世は看守に殺害された。 対外政策では、オスマン帝国との2度にわたる露土戦争(1768年-1774年、1787年-1791年)に勝利してウクライナの大部分やクリミア・ハン国を併合し(キュチュク・カイナルジ条約)、バルカン半島進出の基礎(ヤッシーの講和)を築いた(南下政策)。 第1次、第2次、第3次のポーランド分割を主導し、ポーランド・リトアニアを地図上から消滅させた。かつての愛人でポーランドの最後の国王となった啓蒙思想主義者のスタニスワフ・ポニャトフスキが、即位直後からポーランドを近代民主主義国家にする大改革を断行し、1791年にヨーロッパ初の近代民主憲法(5月3日憲法)を制定した事が原因となった。というのもこの憲法はカトリックの原則の事実上の絶対化により、正教徒の弾圧を正当化したためである。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}豪放磊落で派手好みのエカチェリーナ2世は積極的な外交政策を推進した一方で、対外的には啓蒙専制君主と見られることを好み、紛争における仲裁者の役割をしばしば務めようとした。これはそのままロシアの国際的影響力を高めるということでもあった。1780年にはアメリカの独立戦争に際しては、中立国としてアメリカへの輸出を推進し、ヨーロッパ諸国に働きかけて武装中立同盟を結束させた。[要出典]第一次ロシア・スウェーデン戦争でロシア艦隊はフィンランド湾でスウェーデン海軍に敗北こそしたものの(1790年)、イギリスとプロイセンの仲介により講和し、ロシアの国体には何の影響も及ぼさなかった。 1789年のフランス革命には脅威を感じ、晩年には国内を引き締め、自由主義を弾圧した。フランス革命にも関心を示し、1791年のヴァレンヌ事件後にスウェーデン国王グスタフ3世の提唱した「反革命十字軍」の誘いにも前向きであったが(10月には軍事同盟を締結する)、結成は難航し、露土戦争の優先や1792年のグスタフ3世暗殺などで結成は実現化せず、第一次対仏大同盟にも参加しなかった事で、エカチェリーナ2世の治世下ではフランス革命戦争への介入は行われなかった。また、1791年7月当時、神聖ローマ皇帝レオポルト2世のブルボン王家への援助を呼びかけた回状がヨーロッパの君主国に行き渡っており(この呼びかけによりピルニッツ宣言が発せられる)、グスタフ3世の件もあってエカチェリーナ2世自身は反革命に協力的だったが、ちょうど卒中を起こしていて動けなかった。こうした事から、フランス革命に対する関心は個人的には高かったといえるが、当時はロシアと利害の衝突する国の多くがロシアに脅威を感じていた事から、革命に積極的に関与する必要性はロシア国家としては時期的に見出せなかったといえる。[要出典]
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