女帝・皇婿
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自由民権運動の高まりの中、1884年(明治17年)頃には民間団体・個人による私擬憲法が多数発表された。この中で、女帝の可否、そして「女帝の夫の身位」についても議論が行われた。中でも、政治結社嚶鳴社が行った賛否両論の立場からの公開討論会の様子は東京横浜毎日新聞紙上に連載された。 討論中、反対論者の島田三郎は下記の主張を行った。 古来より女帝は中継ぎの「摂政」としての性質が強く、かつ全員が独身であったことは天理人情に反し現代にそぐわない 欧州諸国と制度が異なり、女帝の配偶者・皇婿となる適任者がいない。外国王族を迎えることはできず、臣民では尊厳を損なう 日本の現状が男尊女卑であるため、女帝の上にさらに尊位があると受け止められかねない この島田の主張に対し、賛成論者が反論し、さらに皇統が絶えた場合の措置にも論が及んだ。 1885年(明治18年)から翌1886年(明治19年)初頭にかけ、宮中の制度取調局の調査に基づく「皇室制規」が起草された。「皇室制規」では、男系が絶えた場合の措置を巡って、嚶鳴社の討論会を基に井上毅が強く反対した。井上の意見により、1886年(明治19年)の「帝室典範」では、女子・女系の継承規定は全て削除され、帝室典範が廃案となり、その後の「皇室典範」の制定過程でも論じられることは無かった。
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