女帝と幼帝の時代(1725年 - 1762年)
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詳細は「エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)」、「ピョートル2世 (ロシア皇帝)」、「アンナ (ロシア皇帝)」、「イヴァン6世 (ロシア皇帝)」、および「エリザヴェータ (ロシア皇帝)」を参照 1725年1月28日にピョートル1世は後継者を定めずに死去した。近衛隊の支持を受けた皇后エカチェリーナがロシア史上初の女帝として即位した(エカチェリーナ1世 在位1725年 - 1727年)。政治の実権は最高枢密院を牛耳るメーンシコフ将軍が掌握したが、エカチェリーナ1世は僅か2年の在位で死去する。 代わってピョートル1世に廃嫡されたアレクセイの子がピョートル2世(在位1727年 - 1730年)として即位した。メーンシコフは失脚し、保守派貴族が実権を握り、首都はモスクワに戻された。ピョートル1世の地方行政改革は破棄され、西欧・北欧に倣ったその他の制度も修正を受けている。だが、1730年にピョートル2世は僅か14歳で病死してしまう。 イヴァン5世の皇女でクールラント公未亡人アンナ(在位1730年 - 1740年)が大貴族たちによって推戴された。アンナは即位の条件として提示された最高枢密院に実権を委ねる誓約書にサインするが、即位後に誓約書を破り捨てて、最高枢密院を廃止してしまう。高官たちはシベリア流刑になり、首都もサンクトペテルブルクに移されたが、これによって皇帝専制権力が勝利した訳ではなく、女帝の貴族への依存は一層深まり、アンナは貴族が要望していた「一子相続令」の廃止を行い、貴族の勤務義務も軽減している。政治に関心を持たないアンナはビロンをはじめとするバルト・ドイツ人に政治を委ねたため「ドイツ人の支配」と呼ばれ、ロシア人の歴史家からの評価は低いが、これは必ずしも客観的な見方ではない。ビロンは私腹を肥やしたが、実際に統治を司ったのは有能なオステルマンであり、対オスマン戦争(1735年 – 1739年)を優勢に指導しており、内政では貴族の教育制度が整備されるとともにピョートル1世の工業化路線が踏襲され銑鉄生産は2倍に増えている。その一方で、大凶作により多数農民が逃亡また餓死する事態も起こっていた。 1740年10月17日にアンナは死去した。後継者に指名されていた同じイヴァン5世系のイヴァン6世(在位1740年 - 1741年)が即位するが、彼は生後2か月の赤子だった。 翌1741年に「ドイツ人の支配」が継続することへの不満から近衛隊によるクーデターが起き、イヴァン6世は廃位され、ピョートル1世の皇女エリザヴェータ(在位1741年 - 1762年)が即位した。エリザヴェータはピョートル1世の統治体制への復帰を宣言したものの、やがて政治への熱意を失い寵臣に政治を委ねた。彼女の治世に財政再建や産業振興そして官僚制の確立に成果があり、また農奴制が強化されている。芸術、建築そして科学の分野での高揚が見られ、この時代に冬宮の建設やモスクワ大学が創立なされた。 ロシアはスウェーデンとのハット党戦争(1741年 – 1743年)に勝利して西カレリア全土を獲得した。オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)ではオーストリア側で参戦した。1756年に勃発した七年戦争(1756年 - 1763年)ではロシア軍は1760年にベルリンを占領し、プロイセン王フリードリヒ2世を破滅寸前に追い込んでいる。
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