女帝の如く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:47 UTC 版)
218年の冬、ヘリオガバルス帝と重臣たちは小アジアのニコメディア(現トルコ共和国・イズミット)で過ごしていたが、同時代を生きた歴史家カッシウス・ディオは、この皇帝が特別な人物であることは既に明らかになっていた事を書に記している。皇帝ヘリオガバルスは、皇帝として「辛い事にも耐え、強くあるように」と説教をした家庭教師に強い反発心を抱いてトラブルになり、事故のような形だったが結果には家庭教師を殺めてしまったと伝えられている。皇帝を逞しく育てようとした家庭教師の教育に、女心を持つヘリオガバルスは耐えられなかったという見方がある。同時期にユリア・マエサは神官にして皇帝という人物を元老院が受け入れるように、神官のローブを身にまとったヘリオガバルス帝の肖像をウィクトーリア女神像の前に掲げさせた。元老院の議員は議事堂のウィクトーリア女神像に捧げ物をする習慣があったので、神官姿のヘリオガバルス帝に捧げ物をするかたちになった。 このようなヘリオガバルス帝の行動からか、後盾であった反マクリヌス派の軍勢はヘリオガバルスを推挙したことを後悔し始め、ゲッリウス・マキムス(英語版)将軍に率いられた第4軍団「スキュティカ」、および元老院議員のウェルスに扇動された第3軍団「ガッリカ」(彼ヘリオガバルスの皇帝就任に助力した)の兵士がヘリオガバルス帝を裏切り、ニコメディアからローマに向かうヘリオガバルス帝を襲撃する事件が起こっているが、この時まだヘリオガバルス帝は14歳であった。しかし、反乱軍は足並みが揃わずに自壊し、「ガッリカ」は消滅した。 皇帝の一族はシリアからローマをめざしたが、アンティオキアやニコメディアに長期間逗留し、上述のように途中で反乱があり、また、天から降ってきた(隕石)と信じられていた、底が平らで先の尖った円錐形の形状をもつ巨大な「黒い石」を御神体としてエメサの神殿から運び出したため、一行のローマ到着は遅れに遅れ、219年の初秋、ようやくローマに到着した。ローマ入城の際、人びとは新皇帝の出で立ちをみて驚愕した。少年皇帝は、地面に届きそうな長袖を支える紫色の地に錦糸をあしらった司祭服を着用し、ネックレスや腕輪など豪奢な装身具をほどこし、頭上に宝石を散りばめた帝冠をいただいたうえで着飾った美しい女性の姿をしていたからである。この時ヘリオガバルス帝は15歳であった。 エウティキアヌス(英語版)やマエサとともにローマへ入城したヘリオガバルス帝は、腹心たちを要職に就けて体制を固めた。たとえば、エウティキアヌスは近衛隊長に続いて3度の執政官叙任を受け、さらに属州総督として2度派遣されている。皇帝の色愛は人事にも影響を与え、恋心を寄せている男性の愛人であった奴隷のヒエロクレスを共同皇帝にしようとしたり、別のお気に入りの愛人である戦車競技の選手ゾティクスを皇帝の執事長に任命している。 財政面では、カラカラがそうしたように銀の含有量を減らしてデナリウス銀貨の切り下げを行うが、一方でカラカラ帝が創始したアントニニアヌス銀貨は廃止した。 ヘリオガバルス帝の初期の治世で正常な統治が行われていたのは、祖母ユリア・マエサと母ユリア・ソエミアス(英語版)が執政権を握っていた為であると考えられている。ヘリオガバルスはローマ史上初となる女性議員に母と祖母を任命し、ソエミアスは「クラリッシマ」(wiktionary:clarissima)、マエサは「元老院の女神」(Mater Castrorum et Senatus)をそれぞれ授与した。。実権を掌握してまるで女帝のような振る舞いをみせる祖母と母に対してヘリオガバルス帝は自分の意見を表明できない、ただの傀儡とされていた。少年皇帝は、祖母と母の絶対的な影響下で育ち、政治的な能力を培っていなかったのである。
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