エカチェリーナ2世の治世
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「アレクサンドル・ベズボロドコ」の記事における「エカチェリーナ2世の治世」の解説
この時期より、公式には宰相イワン・オステルマン伯爵の部下であるにもかかわらず、エカチェリーナ2世とともに全ての外交に関わり、外国駐在大使に命令を下し、条約締結など国務大臣の職務を全て行った。彼はエカチェリーナ2世の孫コンスタンチンをギリシャ帝国の皇帝にするという夢をも支持し、エカチェリーナ2世も多くの領地や年金をベズボロドコに与えた。1786年に元老院(英語版)議員になり、1787年には実質的な外務大臣としてエカチェリーナ2世の南ロシア巡幸に同伴した。その途中でカニウに立ち寄ってポーランド王スタニスワフ2世アウグストと交渉し、エカチェリーナ2世がヨーゼフ2世と会ったときには女帝の馬車の中にいた。 再び勃発した露土戦争(1787年 - 1791年)とロシア・スウェーデン戦争(1788年 - 1790年)は激務のベズボロドコにさらなる重圧を与え、エカチェリーナ2世の新しい愛人アレクサンドル・ドミトリエフ=マモーノフ(英語版)などの政敵はベズボロドコを攻撃した。ベズボロドコは2つの戦争の講和に尽力、1790年8月14日にスウェーデン王グスタフ3世とヴァララ条約を締結したが、露土戦争のほうはグリゴリー・ポチョムキンが急死したためベズボロドコは急遽ヤシに派遣され、1792年1月9日にロシアに極めて有利なヤッシー条約を締結した。この功績でエカチェリーナ2世から5万ルーブルを与えられ、聖アンドレイ勲章(英語版)を授与された。 しかし、ヤッシーから帰国したベズボロドコはpetition-secretaryの職を女帝の最後の愛人プラトン・ズボフ(英語版)に奪われた。ベズボロドコは1793年を通して私的な回想録でこの「尊厳の減損」について抗議し、エカチェリーナ2世は1793年9月2日のヤッシー条約締結祝賀式でベズボロドコにさらなる栄典を与えた。その後、エカチェリーナ2世はベズボロドコとズボフを和解させ、ベズボロドコは再び外交を主導した。彼は第三次ポーランド分割を主導して、エカチェリーナ2世から多くの褒賞を与えられた。 ベズボロドコは内政でも手腕を発揮して、郵便局を改革、銀行制度を改善、財政を引き締め、道路を建設した。
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エカチェリーナ2世の治世
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「アレクセイ・グリゴリエヴィチ・オルロフ」の記事における「エカチェリーナ2世の治世」の解説
エカチェリーナ2世が即位すると、オルロフ家には褒賞が与えられ重用された。オルロフは少将に昇進して伯爵に叙され、兄と合計で5万ルーブルと農奴800人を与えられた。外国語を話せず、正式な教育をほとんど受けなかったものの、オルロフは科学への興味を持ち、ミハイル・ロモノーソフやデニス・フォンヴィージンのパトロンになり、ジャン=ジャック・ルソーとも文通した。領地経営では飼育に興味を持ち、オルロフ・トロッター(英語版)という馬の品種を作り出し、オルロフ(英語版)というニワトリの品種を広めた。 1768年から1774年の露土戦争ではギリシャへの遠征を計画、ロシア帝国海軍の艦隊を率いて1770年7月5日のチェシュメの海戦(英語版)でイギリスの海軍軍人の助力を借りてオスマン艦隊を撃破した。これにより1774年に「チェスメンスキー」という尊称と聖ゲオルギー勲章(英語版)第1等を与えられた。この遠征によりギリシャでオルロフ反乱(英語版)が勃発、初期は成功を収めたもののロシアからの支援が長続きしなかったためオスマン軍に鎮圧された。 エカチェリーナ2世は続いてオルロフにエリザヴェータ女帝の娘を称するタラカノヴァ皇女(英語版)を捕らえてロシアに連行するよう命じた。オルロフはタラカノヴァ皇女の支持者を装って彼女を誘惑することに成功し、1775年5月にリヴォルノでロシア船に乗船させることに成功した。彼女はそこでサミュエル・グレイグ(英語版)提督によって逮捕されロシアに連行、そこで投獄された後死亡した。直後にオルロフ家がエカチェリーナ2世の寵愛を失ったためオルロフと兄グリゴリーが罷免され、オルロフはモスクワ近くにある宮殿に引退してきらびやかな舞踏会や晩餐会を開催、自身を「モスクワで最も人気のある男」にした。
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