エカチェリーナ2世による宗教政策と古儀式派
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「ロシア正教会の歴史」の記事における「エカチェリーナ2世による宗教政策と古儀式派」の解説
ピョートル1世以降の18世紀中頃は、古儀式派と、拡大したロシア帝国におけるイスラームに対する施策が大変厳しい時代であったが、プガチョフの乱以降、エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は少数民族に対する施策を緩和し、モスクとイスラームの学校設立を認めた。 古儀式派に対する施策も緩和された。すでにピョートル3世によって方針転換が図られていたが、エカチェリーナ2世はこれを踏襲。グリゴリー・ポチョムキンは特に古儀式派に好意的であった。1769年には古儀式派信徒が裁判で証人を立てることを認め、1782年に2倍の人頭税を廃止、公文書において「分離派」(ラスコーリニク)ではなく「古儀式派」(スタロオヴリャーヂェツ)を使うことに決めたのもこの時である。1785年には諸々の市民権が与えられ、痛悔の自由も認めた。 一方、ルター派のピョートル3世を嫌ったロシア正教会がエカチェリーナ2世のクーデターと即位に支持を与えたものの、女帝はロシア正教会に対しピョートル1世以来の政策を踏襲し、教会に対する統制と西欧化といった基本方針には変更が加えられなかった。このため、ピョートル1世ほどではないにせよ、エカチェリーナ2世に対する現代の正教会からの評価はあまり高くない。 古儀式派は産業面において特に活躍していくこととなった。1771年末から翌年にかけてモスクワで流行したペスト禍に際しても古儀式派は慈善活動に熱心に取り組み、古儀式派の共同体はこの時代に大きく発展した。18世紀の女帝達は首都サンクトペテルブルクに工場を置くことを嫌い、産業省はモスクワに置かれモスクワは産業の中心であり続けたが、19世紀のモスクワでは古儀式派の経済活動が活発であった。
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