エカチェリーナ2世期の地方行政制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/17 03:30 UTC 版)
「グベールニヤ」の記事における「エカチェリーナ2世期の地方行政制度」の解説
エカチェリーナ2世期のロシアでは、1773年のプガチョフの乱から、地方に対する統制強化の必要性が認識されており、 1775年には、後の地方行政制度の基礎となる制度改革が実施された。 1775年に制定された「全ロシア帝国の県行政に関する設置法」では、県の設置基準を、人口30万人から40万人とし、20県が40県に分割された。また、強力な行政権を有する総督管区(наместничество ナメストニチェストヴォ)、総督府(генерал-губернаторство ゲネラール・グベルナートルストヴォ)が導入され、しばしば複数の県を管轄下に置いた。また、県の下部組織として郡(уезд ウイェースト)が設置されると共に、旧来の郡(プロヴィンツィヤ)は廃止された。 また、県行政の官僚機構が整備され、県知事を補佐する県副知事(вице-губернатор ヴィツェ・グベルナートル)や、郡の首長である郡警察本部長(капитан-исправник カピタン・イスプラーヴニク)が設置された。また、総督や県知事を監督する高等監察官(генерал-прокурор ゲネラール・プロクロール)も導入された。県行政の多くのポストは、貴族身分から任命されるものと規定された。 1796年12月31日の元老院の決定では、総督府の権限は、従来の県と同様に格下げとなり、再び県が設置された。また、県の下部組織として郡(ウイェースト)、郡の下部組織として郷(волость ヴォーロスチ)が設置された。またこの時期、総督管区の廃止も行われた。
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