エカチェリーナのクリミア視察旅行とは? わかりやすく解説

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エカチェリーナのクリミア視察旅行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 23:20 UTC 版)

グリゴリー・ポチョムキン」の記事における「エカチェリーナのクリミア視察旅行」の解説

このクリミア成長ぶりを視察するため、ポチョムキン演出エカチェリーナ1787年クリミアへの視察旅行に出かけた。その時ポチョムキン命令街道沿いにエカチェリーナ一行歓迎するために装飾施した伝えられる所によると、厚い紙に美しい村風景描き入れ女帝の船が通る河岸堤防設けておき、豊かなあるかのように見せかけ女帝通りすぎた後は、大急ぎで絵を下流移したという。それ以降みすぼらしかったり、恥ずかしところを隠すための「見せかけ」を意味するポチョムキン村」という言葉生じようになった。 もっとも、このような言い伝え誇大なものであり、女帝歓迎するために街や装飾行ったのは事実だが、それは周知のものであり、貧困をごまかす意図無かったとされる実際クリミア肥沃な地であり、貧困をごまかす必要などなく、ポチョムキン尽力により、今なお黒海沿岸の主要都市であるオデッサニコラーエフヘルソンなどが建設され現実順調に発展していた。 しかし、エカチェリーナ最晩年寵臣プラトン・ズーボフ(英語版ロシア語版)は老齢女帝寵愛良いことに、ポチョムキン立場をも脅かすほどの影響力を持つようになった1791年10月5日ロシア暦)/10月16日グレゴリオ暦)、ヤシから任地ニコラーエフ赴く道中のラデニイ・ベキ(ルーマニア語版)付近草原倒れ女帝先立って病死した。52歳没。晩年女帝から軽んじられるようになり、失意のうちに世を去ったと言われるが、彼の訃報接した女帝は「夫」の死を深く嘆き悲しんだ墓所ヘルソンの聖エカテリーナ大聖堂ポチョムキン倒れた場所には1年後記念石碑石柱建てられ兵士常駐していたが、その後荒廃し忘れ去られていた。しかし1963年地元医師埋もれた石碑発見小規模な修繕が行われた。そして2016年ロシア政府モルドバ政府協力の下で修復工事が行われ、同年11月公開された。

※この「エカチェリーナのクリミア視察旅行」の解説は、「グリゴリー・ポチョムキン」の解説の一部です。
「エカチェリーナのクリミア視察旅行」を含む「グリゴリー・ポチョムキン」の記事については、「グリゴリー・ポチョムキン」の概要を参照ください。

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