エカチェリーナ2世からアレクサンドル1世
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「ロマノフ朝」の記事における「エカチェリーナ2世からアレクサンドル1世」の解説
エカチェリーナ2世は積極的な対外進出を推し進める一方、様々な行政改革と近代化を行い、帝政の全盛期を現出した。1796年の女帝の崩御後は息子のパーヴェル1世が跡を継いだが、彼の父はピョートル3世ではなく(公式にはピョートル3世の息子とされている)愛人セルゲイ・サルトゥイコフ伯爵の息子ともされており、仮にそうなる場合はロマノフ家が断絶したと解釈することもできる。 パーヴェル1世は女帝の政策を否定し、世襲で混乱するロマノフ家を収束するために1797年に帝位継承法を発布し、以後は男系の長男が皇位を継承することが定められた。しかし1801年にパーヴェル1世は部下のクーデターで殺害された。 パーヴェル1世の長男・アレクサンドル1世は祖母の政策を受け継ぎ君主権強化と近代化を推し進めた。1812年にはフランスのナポレオン・ボナパルトの侵攻を受けるが、巧みなゲリラ戦を繰り広げてフランス軍を撃退し、東欧最大の強国としての地位を確立した。さらにポーランドを再分割し、フィンランド大公国を建国して、ウィーン会議において神聖同盟(五国同盟)を提唱するなどヨーロッパに対する影響力も高めた。
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