ヨーロッパに対する影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:29 UTC 版)
「アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)」の記事における「ヨーロッパに対する影響」の解説
アレクサンドル1世は、国内政治よりも外交における業績に顕著なものが見られる。事実、彼の壮大な想像力は、ヨーロッパにおける諸問題により強く惹きつけられていた。アレクサンドル1世は即位直後、父帝の中立路線を翻し、1801年にイギリスと同盟した。同時に神聖ローマ皇帝フランツ2世(のちのオーストリア皇帝フランツ1世)と同盟を協議し、さらにプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とはメーメル(現在のクライペダ)で同盟を締結した。 こうした各国との同盟の背景にはナポレオン・ボナパルトの存在があった。始めアレクサンドル1世はラ・アルプの影響からナポレオンに対して敬意を示していた。しかし、フランスを訪問したラ・アルプはナポレオンに、軍事独裁者としての片鱗を鋭く見て取り、帰国後アレクサンドルに対して全否定する報告を提出した。このラ・アルプの酷評に加え、1804年にナポレオンの命でブルボン家の王族であるアンギャン公ルイ・アントワーヌが処刑されたことで、アレクサンドルはナポレオンの野心に恐怖を抱くようにすらなっていた。アンギャン公処刑を契機に露仏関係は冷却化し、国交を断絶するに至った。
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