同盟の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 21:11 UTC 版)
武田信玄は信濃の領有を、北条氏康(氏政の父)は関東平野の制圧を目指して兵を北上させていたが、双方に戦で敗退し、関東での勢力を減退させた関東管領上杉憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を養子として山内上杉家の家督と関東管領の地位を譲った。謙信は信濃や上野に派兵して武田・北条氏と度々交戦した。 ところが、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が敗死して今川氏の威勢が衰えると、甲斐と相模と駿河の三国間で甲相駿三国同盟を締結していたにも関わらず、信玄は信濃方面の戦いから東海道に進出する南下策に転換し、永禄11年(1568年)に駿河侵攻を開始して今川氏真(義元の子)を遠江に追放する。この際、武田氏は北条氏に対し「上杉と今川が示し合わせて武田を滅亡させようとしたことが明らかになったので」と説明していたが、武田方が氏真の正室早川殿(北条氏康の娘)の保護を怠ったために、早川殿は徒歩で逃げる羽目になった。このことに氏康が激怒したために北条氏は武田氏との同盟を破棄し、氏政が継続中の今川氏との同盟によって駿河に兵を進め、信玄との戦いを開始した。だが、この時北条氏は前年(永禄10年(1567年))の三船山合戦における対里見氏戦の敗北によって上総の大半を失う事態に陥っており、その結果として北に上杉氏、東に宿敵里見氏、そして西に武田氏を敵として三方に抱える状況となった。 謙信もまた、永禄9年(1566年)に臼井城の戦いでの下総臼井城攻めに失敗したことにより、それまで謙信に与力・帰属していた関東の大名・豪族の多くが北条氏に降る事態に陥っていた。9月には上野金山城主由良成繁が離反、西上野箕輪城も信玄の攻撃を受けて落城、城主長野業盛は自刃し、越後と国境を接する上野に武田の勢力が伸びていた。更に反北条氏の急先鋒であった常陸太田城主佐竹義重が、更なる関東・東北進出を志向し謙信と対立するようになる。房総半島では里見氏が北条氏を撃退したものの、永禄10年には上野厩橋城代を務める謙信の直臣である北条高広までもが北条氏に通じて謀反を起こした。信玄は西上野の領国化を遂げており、謙信の関東における支配地は沼田領と厩橋領、そして桐生領までに縮小していた。 このように謙信も悪化する関東情勢を睨みつつ、信濃と西上野で信玄との対峙が続いていることから、北条氏の実権を握る氏康は謙信との和睦、すなわち関東諸大名との戦いをひとまず収め、共通の敵となった信玄との戦いに集中するという方針を打ち出した。
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