同盟人として
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日本電報通信社(電通)の後塵を拝していた聯合はこの頃、「一国一通信社」の主張を掲げ、軍部を動かして電通の吸収を図っていた。聯合は同盟通信社(以下「同盟」)に改組し、電通の通信部を合併させることに成功した。この新会社で長谷川は、外信部長に就任した。 1937年6月、長谷川はロンドン支局長の辞令を受けた。ただし、すぐにロンドンへは向かわず上海支社や米国を視察した後、フリート街のロイター本社ビル内にあった、同盟のロンドン支局へ赴任した。 長谷川がロンドン入りした1937年は、第二次世界大戦直前の激動の時代であった。ナチス・ドイツによるオーストリアの併合(アンシュルス)、独軍のポーランド侵攻、独軍によるイギリス本土空襲(バトル・オブ・ブリテン)といった重大事件を、長谷川はロンドンの地で報じた。長谷川は東京本社時代、事件があると各支局へ指令の電報を発していたが、ロンドン赴任後は逆に、支局長でありながらしばしば東京本社へ指令電を打った。 1941年12月8日、日本が米英へ宣戦を布告すると、イギリスは直ちに在留邦人をマン島へ抑留した。マン島には、イタリア人やルーマニア人、ハンガリー人などの敵国人が集められ、現地の安ホテル数百軒に入って抑留生活を送った。長谷川は第26番館長を任され、待遇改善などの折衝に当たった。 将校の管制下に置かれた収容所での生活は不自由が多く、週2回の散歩やラジオの聴取こそ認められていたものの、厳しい寒さや栄養不足に悩まされた。しかし抑留から半年余りのちの1942年7月16日、司令部から帰還命令が下り、9月27日に横浜港にたどり着いた。 1945年8月の終戦時には、陸軍省の意向を無視して日本のポツダム宣言受諾の第一報を打電した。 8月10日午前3時に天皇が下したポツダム宣言受諾の方針は、内閣書記官長の迫水久常を通じて長谷川に伝えられた。「日本政府の終戦についての方針はポツダム宣言を受諾することにきまっているが、手続きのうえでひどくてまどっていて、回答が遅れているという旨を流してほしい」という迫水の依頼を受けた長谷川は、海外向け放送でこれを報じた。すると、欧米メディアから日本への放送が直ちに返ってきたため、これを傍受した陸軍内部は大騒ぎとなった。 大本営の報道部は同日夕刻、徹底抗戦を主張する陸軍大臣布告を発した。迫水や長谷川のもとには陸軍将校らが押しかけ、なぜあのような放送をしたのかと問い詰めたが、両名は共に知らぬ顔を決め込んで事無きを得た。
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