同盟休校と無産農民学校の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 09:49 UTC 版)
「木崎村小作争議」の記事における「同盟休校と無産農民学校の設立」の解説
5月17日夜、組合幹部は争議のための行動計画を決めた。そこには、行商隊の結成、婦人部の設置と並んで、村立尋常小学校に通学する組合員の子弟が無期限で同盟休校することが掲げられた。直ちに結成された婦人部の行商隊は、真島の似顔絵をパンに焼き付けた「真島パン」や組合マッチなどを売り歩きながら、小作側の主張をアピールした。 さらに組合は「児童同盟休校並びに新農民小学校建設に対する声明書」を発表し、村長や小学校の守旧的な姿勢を批判、村内各所に教場を開いて授業を開始した。また、木村毅・大宅壮一・富士辰馬らが課外授業を行った。6月15日には無産農民学校協会が発会し、賀川豊彦が会長となった。そして、遠藤新が設計したライト式の校舎の建築は急ピッチで進められ、7月25日に上棟、9月1日には開校式が行われた。 しかし、公教育維持の立場から政府・県当局は強硬的な方針を崩さなかった。そのため、9月8日に和解が成立し、無産農民学校は解散、同盟休校は終結した。農民学校の校舎は補習教育機関としての新潟高等農民学校として存続したが、青年訓練所の開所や組合組織の分裂で経営難に陥り、1928年に閉校、1936年に解体された(その跡地には争議開始50周年の1972年に「木崎村小作争議記念碑」が建立されている)。
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