同盟の連合
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3つの別々の同盟は当初は非公式に協力しあった。たとえば1450年のシャムスにおけるフェーデではヴェルデンベルク=ザルカンス伯爵家と対立した十裁判区同盟がゴッテスハウス同盟と連携した。3つの同盟の公式的な合同会議は1461年から行われていたことが記録に残っている。より密接な連帯は上の2つの同盟が灰色同盟と連合した1471年からだと考えられるているが、これを裏付ける文献は残っていない。しかしこのころが「三同盟」としての歴史の始まりであるとの見方が一般的である。1496年にハプスブルク家が、断絶したトッゲンブルク伯爵家の領地を継承すると、三同盟は1497年と1498年にスイス同盟と連合し、3年後のシュヴァーベン戦争ではスイス同盟に味方した。ハプスブルク家はカルヴェンの戦いやドルナッハの戦いで大敗したために戦争に敗北し、スイス連邦と連合する三同盟を正式に認めた。この後、1520年のムッソ戦争で三同盟はよりスイス連邦に接近した。 1499年以降は3つの同盟の集合を超えた自由国として事実上神聖ローマ帝国から分離し、16世紀には近世ヨーロッパにおける特殊な政治組織へと発展していった。すべての決定がコミュナリズム的に行われるという意味では17世紀初頭のヨーロッパで唯一の地域であり、同盟の設立や統治、防衛は全て集合的決定に基づいていた。 1524年9月23日、「永久盟約(ドイツ語: Bundesbrief)」が憲法として制定された。これは結果的にナポレオンが1799年に解散する時まで維持された。自由国における最高権力は連邦議会で、各選挙区に対して責任を負う63人の代議員によって構成されていた。議会はイランツ、クール、ダボスの三つの都市で順番に開催された。しかし今日の基準で考えると、自由国は単一の統一された州というよりは、「三同盟」の名の通り3つの州の連合と考えられるだろう。なぜなら自由国としての三同盟の組織自体にはほとんど能力がなく、同盟内の事実上すべての問題は国民投票によって解決されたからだ。 1524年と1526年のイランツ条項はクール司教の権力を制限し、3つの同盟間の同盟関係を強化した。1524年4月4日に採択された最初の条項では、司祭は受け持った地区に住み、その会衆の精神的な要求に熱心に答え、廉直な生活を送ることを要求された。同時に各共同体は担当の司祭を承認し、クール司教が世俗的な問題について判断を下すことを制限する権利を持った。二つ目の条項は1526年6月25日に採択された。彼らはクール司教の世俗的な権限を完全に取り除いた。それぞれの小教区は自分の教区の司祭を選ぶことができるようになった上、司教の叙任には連邦議会全体の承認が必要になった。加えて宗教指導者たちは世俗の役人を任命することができなくなり、修道院は行政の監督下に置かれ、さまざまな十分の一税が廃止または減額された。これらの条項により同盟の世俗的権威は周辺地域の中で最も強大なものとなったため、1798年のフランス侵攻まで同盟法に留まった。 フランス革命軍によるスイス侵略により三同盟はラエティアの行政区としてヘルヴェティア共和国に併合された。その後ナポレオンの調停法により同盟は1803年にグラウビュンデン州として、復元されたスイス連邦に組み込まれた。州の現在の憲法は1892年にさかのぼる。 キアヴェンナ、ヴァルテッリーナ、ボルミオといった以前の三同盟の属州はラエティアの一部にはならなかったものの、フランス革命の影響で反乱を起こして1797年10月10日にチザルピーナ共和国に併合されたため、永久に同盟からは切り離された。その後ウィーン会議を経てオーストリア帝国の従属国であるロンバルド=ヴェネト王国に加わり、最終的にはイタリアのソンドリオ県の一部となった。 カンピョーネも同様にルガーノから切り離され、現在のティチーノ州のイタリアの飛び地「カンピョーネ・ディターリア」の発端となった。
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