同盟の解消とその後
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同盟から2年後の元亀2年10月に、同盟を主導していた氏康が病死すると、氏政は越相同盟を解消、同年に信玄と再び同盟した(第二次甲相同盟)。北条と上杉では根源から利害が対立するだけに、同盟には無理が大き過ぎたともいえる。その後、幾度か両軍は衝突するが大規模な戦闘には発展していない。 ただし、謙信と景虎の養子縁組は解消されず、男子のいない謙信の後継になる可能性が残された。また北条は主に房総や下野方面に進出したため、東上野は上杉領、金山城など南上野の一部は北条領という原則が天正6年(1578年)の御館の乱までは守られ続けた。しかし御館の乱で謙信の甥・上杉景勝が勝利し景虎が敗死すると、改めて北条は上野の領有権を主張し、本格的な抗争が再開された。
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同盟の解消とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/08 06:46 UTC 版)
しかし、その後の数十年間、ロシアの注目は徐々に南方のオスマン帝国に移っていった。グリゴリー・ポチョムキンが推進したこの政策により、プロイセンの同盟国としての価値は減り、代わりにオーストリアの株が上がった。露普同盟は1777年に再度延長されたが、サンクトペテルブルクの宮廷ではパーニンなどの親プロイセン派の影響力が目減りし、ポチョムキンなどの親オーストリア派が徐々に影響力を増していった。マリア・テレジアの死後、息子のヨーゼフ2世はロシアとの関係の改善を選び、1781年初に秘密交渉をはじめ、同年5月から6月頃には墺露同盟が成立するに至った。露普同盟は正式には1788年まで存続したが、墺露同盟が成立した以降はその重要性を失い、プロイセンがヨーロッパで孤立した。プロイセンは代わりに英普同盟を再び締結した。パーニンが述べた通り、露普同盟の崩壊は彼の政治生命の終結を意味した。
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