同盟の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/12 17:57 UTC 版)
武田氏の西上作戦は元亀4年(1573年)4月に信玄死去により撤兵され収束する。 濃越同盟はその後も継続され、信長は上杉氏に対して贈答品を送っている(南蛮式のマントなど)。 天正4年(1576年)には安芸国毛利氏のもとに亡命していた足利義昭による反信長勢力の糾合に応じ、本願寺は信長に対して挙兵(石山合戦)。長島・越前と壊滅して追いつめられていた本願寺の顕如は、信長に対抗するため謙信の祖父・長尾能景時代から敵対関係にあった上杉氏との和睦を模索する。同年5月に義昭は上杉・武田・北条三者の和睦を調停し(甲相越一和)、三和は失敗に終わるが織田・上杉間の関係は多く変化する。 北陸の一向門徒らも謙信に助力を求めたため、同年5月18日に謙信と顕如は和睦し、同盟を結んだ(『上越市史』別編(上杉氏文書集) - 1289号)。これにより、濃越同盟は消滅し、謙信と信長は敵対関係になったのである。
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