同盟の推移と効果
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同盟は成ったとはいえ、連携不足や締結条件の調整の不徹底から、初手から両氏の足並みは乱れていた。7月には武蔵の内北条側とされた武蔵松山の領有を謙信が認めていないことが明らかになっている。 同月、信玄が伊豆・駿河に陣を構え、9月には上野を迂回して北条氏の本拠地である相模小田原城に向けて侵攻した。その情報を得ていた氏康・氏政父子は9月中旬(7日-)に相次いで謙信に、約定では放生会以前であったはずの信玄牽制のための出兵を促していた(上杉家文書)。これに対し越中の陣中にあった謙信は動けず、信玄は10月初旬(1日-)に氏康父子の篭城する小田原城を攻め周囲に放火して撤退、これを追撃した北条氏は三増峠の戦い(6-8日)にて信玄に善戦しつつも敗退した。 10月中旬(8日-)の氏康の再度の出陣要請の申し送りに対して謙信は「越中出陣は表裏ではない」旨の誓詞(上杉家文書・歴代古案)をしたためた上で、11月初旬に急遽越後に帰国して出兵。早くも同11月下旬(20日)に上野沼田城に入った。しかし今度は氏政が、12月に伊豆・駿河に攻め入った信玄に向けて布陣したため、謙信の同陣要求に応じなかった。また、その事情を知りながら、越相同盟に不信を抱く佐竹義重は宇都宮広綱・真壁氏幹・太田資正らとともに別方向である南常陸の小田氏治の攻撃を始め、手這坂の戦いに至った。 このため謙信は永禄13年(元亀元年・1570年)正月に、氏康の求めた西上野方面ではなく、下野に陣を進めると佐野昌綱の唐沢山城を攻め、かねてより同盟の条件として北条氏から異論の出て遂行されていなかった武蔵岩付城を割譲し太田資正に返還するように要求。北条氏は誓詞をもって返還に応じることになった。北条から上杉への養子の件も難航のすえ、3月に氏康の実子の三郎と決まり、4月、沼田城にて謙信と対面。以後、謙信の初名を与えられ上杉景虎を名乗ることになり、そのまま伴われて春日山城へと入った。 一方、信玄は同年にあたる元亀元年10月に謙信属城の沼田城・厩橋城を攻めた後、武蔵秩父方面に侵攻。対する氏政は武蔵多摩に布陣、謙信は沼田に着陣して信玄を牽制するなど、本格的に連携がなりはじめたものの、武田軍は両軍と対決することなく退去。12月になると信玄は再度駿河御厨に攻め入り、北条氏の重要拠点であり駿河における最後の砦ともいえる深沢城・興国寺城を包囲、北条方は総動員の構えで対応するが抗しきれず翌元亀2年(1571年)1月に深沢城は武田方に開城。氏政の要請により、2月下旬に向けての越山の準備を調えていた謙信は、開城と信玄帰陣の報を聞き、出馬を取り止めている。氏康病没後の元亀2年11月、信玄に通じていた常陸の佐竹義重は、氏政及び常陸小田城主小田氏治を攻めたため、救援を要請。謙信は上野総社に布陣し武田軍と対峙した。 謙信は北条氏の要請によって幾度か出兵を果たしはしたが、結果的に北条氏にとって同盟の効果は武田氏対策としても反北条諸侯対策としても薄く、その有効性には大きな疑問符が付いた。信玄の相模・北条に対する軍事行動も、深沢城を落とし駿河をほぼ制圧した後は終息に向かっていた。この時期には上杉謙信と徳川家康との間で同盟が結ばれ、上杉・北条・徳川の三氏の包囲された武田氏の軍事行動が制約され始めたと考えられている。 謙信にとっても、対武田勢力としての北条氏の同盟の効果はさほど見られず、同盟後期にはすでに武田と北条の和睦を疑うような状況にあった(上杉家文書)。逆にこの同盟によって反北条の関東諸侯による謙信への不信を招き、あわせて関東の上杉与力衆の没落などの趨勢の変化や、天正元年(1573年)に織田信長に京都を追放された室町幕府15代将軍足利義昭から上洛要請を受けた謙信は、上洛や越中平定の方に力を注がねばならぬ都合もあり、関東への大規模な軍事介入は行われないようになっていった。
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