ラスマインズの戦いとクロムウェルのアイルランド上陸
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「クロムウェルのアイルランド侵略」の記事における「ラスマインズの戦いとクロムウェルのアイルランド上陸」の解説
詳細は「ラスマインズの戦い」を参照 カトリック同盟の末期である1649年には、議会派の拠点はアイルランド東部レンスターの都市ダブリンに残されているだけであり、マイケル・ジョーンズ大佐が指揮をしていた。都市および議会派が上陸可能であった港を奪取するためにオーモンド侯指揮下の国王派とカトリック同盟の連合軍は、ダブリンの南に位置するラスマインズ(英語版)に集結した。 しかし国王派が展開中の8月2日、ジョーンズは奇襲を仕掛けこれを敗走させた(ラスマインズの戦い)。ジョーンズは4000人の国王派およびカトリック同盟兵士を殺害し、加えて2517人を捕虜としたと主張、クロムウェルはこの戦いを「驚くべき幸運、すばらしい、格好のタイミングで私たちにとって夢のようである」と評した。アイルランドの首都を維持できたこと、そして自分たちが安全に上陸可能な港を確保できたことを意味していたからである。 キンセール(英語版)においてロバート・ブレイク提督がカンバーランド公ルパート率いる国王派艦隊の生き残りを封じ込めている間、クロムウェルは兵士と武装を満載した35隻の船で8月15日に上陸した。2日後には副司令官でクロムウェルの婿でもあるヘンリー・アイアトンがさらに77隻の船で上陸している。 オーモンド侯の軍隊は混乱の中ダブリン周辺から撤退した。ラスマインズでの予想外の敗北で彼らは意気消沈しており、短期間のうちに再度会戦することはできなかった。その結果オーモンド侯は、アイルランド東海岸の城塞都市を保持してクロムウェルの進軍を冬まで引き付けることを望み、「ハングリー大佐とシック少佐(つまり飢餓と病)」が彼らを漸減させることを願った。
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