ヨーロッパによる植民地化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 21:17 UTC 版)
「サハラ交易」の記事における「ヨーロッパによる植民地化」の解説
大きく減少したとはいえサハラ交易は継続し、トリポリとカノを結ぶルートが使われた。しかしヨーロッパ諸国のベルリン会議(1884年-1885年)によってアフリカ分割が決まると、北アフリカ、サハラ、西アフリカが征服されていった。1894年にはフランス軍がトンブクトゥを占領し、占領地に出入りする商人に関税を課してサハラ交易に介入した。これに対してトゥアレグ人やサヌーシー教団は抵抗した。他方でナイジェリアを植民地化したイギリスは1911年にラゴスからカノに鉄道を建設した。第一次大戦後にはトラックが導入され、フランス系の商社によってアルジェリアからデーツ、タバコ、絨毯などが南へ運ばれ、マリからラクダ、ヒツジ、ピーナッツなどが北へ運ばれた。こうして伝統的なキャラバンはさらに衰退した。 キャラバンの衰退は、交易を担ってきたトゥアレグの生活基盤を破壊したためにトゥアレグによるフランスへの反乱が相次いだ。1914年の反乱では死者が1500人以上、1929年の反乱では死者が1500人以上でラクダが25000頭以上死亡した。
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