ヨーロッパによる植民地支配直前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:12 UTC 版)
「タンガニーカ湖」の記事における「ヨーロッパによる植民地支配直前」の解説
19世紀半ばに、タンガニーカ湖とインド洋沿岸のちょうど中間地点近くを勢力範囲としていたニャムウェジ人が、ミランボ王の統治下で統一され、両地域間の交易を担うようになった。またこの頃には、海岸部のザンジバルに拠点を置いたオマーン王国国王のサイイド・サイードが交易を奨励したため、従来は海岸部に留まって内陸諸民族から交易品の供給を待っていたアラブ人商人が、自ら直接内陸部へと進出して交易に乗り出した。例えば、ティップー・ティプなどの奴隷商人も、この地域へと進出するようになった。リンガフランカとしてスワヒリ語が湖岸全域に徐々に広まり出した時期も、この頃である。 これらの勢力間の間には対立も起きたものの、やがて1876年には通商協定が結ばれ、共存が図られた。タンガニーカ湖畔へのキャラバンの主な出発地は、インド洋に面したバガモヨで、ここからまっすぐ西へと向かい、ニャムウェジ人の本拠であったカゼ(タボラ)を経由して、タンガニーカ湖東岸中部のウジジへと到達する経路だった。ウジジは、タンガニーカ湖岸地域の交易の中心地として機能した。 また、ウジジからタンガニーカ湖を越えて、さらに西へと交易ルートを伸ばす商人も現れ始めた。1860年頃からは、ティップー・ティプがタンガニーカ湖西岸に本拠を置き、コンゴ川上流域(ルアラバ川地域)にかけての商業帝国を築き上げ、20年間ほど帝国を存続させた。
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