グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフとは? わかりやすく解説

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グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/07 17:09 UTC 版)

グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ伯爵、フョードル・ロコトフ英語版作、1762年/1763年。

グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ伯爵(ロシア語: Григорий Григорьевич Орлов, tr. Grigory Grigoryevich Orlov1734年10月17日 - 1783年4月24日グレゴリオ暦))は、ロシア女帝エカチェリーナ2世の寵臣。エカチェリーナ2世の夫ピョートル3世を廃位してエカチェリーナ2世を女帝に即位させた宮廷クーデターロシア語版の首謀者であり、クーデターが成功した後は共同統治者同然だったが、不貞を繰り返し、エカチェリーナ2世の顧問たちと対立したことで失脚した。エカチェリーナ2世との間で息子アレクセイ・グリゴリエヴィチ・ボーブリンスキーロシア語版をもうけたとされる。

生涯

ノヴゴロド総督グリゴリー・イヴァノヴィチ・オルロフロシア語版の息子として生まれ、サンクトペテルブルク士官学校で教育を受けた後、七年戦争に参戦して1758年のツォルンドルフの戦いで負傷した[1]。帰国後、砲兵将校としてサンクトペテルブルクで勤務しているとき、大公妃エカチェリーナ・アレクセーエヴナ(のちのエカチェリーナ2世)の愛人となる[1]。1762年、皇帝ピョートル3世を廃位して殺害した宮廷クーデターロシア語版の首謀者になり、その功績でエカチェリーナ2世によって伯爵、副将英語版、工兵総監、首席大将に叙された[1]

エカチェリーナ2世は一時オルロフとの結婚を検討するほどだったが、ニキータ・イヴァノヴィチ・パーニン伯爵によって阻止された[1]。それでもオルロフの権勢は絶大であり、特にフョードル・アレクセーエヴィチ・ヒトロヴォーロシア語版によるオルロフ家を皆殺しにする陰謀が露見した後はなおさらであった[1]。グリゴリー・オルロフは政治家としての資質に欠けていたが、当意即妙の機知に富み、時事問題に関する正確な視点を持ち合わせていた[1]。エカチェリーナ2世の治世当初にあっては有能かつ女帝と共鳴する顧問として国政に関与し、愛国心と経済的な動機から農奴制の問題に熱中して農奴の部分的解放による生活の改善を主張した[1]。また、啓蒙専制君主然としたエカチェリーナ2世の歓心を得ようとして、学術会議「自由経済協会英語版」の総裁に就任し、さらに1767年の全ロシア法制委員会における最も著名な主唱者でもあった[1]

エカチェリーナ・ニコラエヴナ・ジノヴィエヴァ、フョードル・ロコトフ英語版作、1779年。

オルロフはオスマン帝国からキリスト教徒を解放しようというスラヴ派の主張を提唱した初期の人物であり、1771年にはロシア代表としてフォクシャニ平和会議に派遣されたが、オスマン帝国が強硬だったのと(パーニンによると)オルロフの外交姿勢が横柄だったため失敗に終わった[1]。一方、サンクトペテルブルクではパーニンらオルロフの政敵が策謀をめぐらして、オルロフが13歳の親族をつまみ食いしたと女帝に告発したため、女帝の寵愛がより若いアレクサンドル・ヴァシリチコフ英語版に移った[2]。さらにヴァシリチコフがグリゴリー・ポチョムキンにとってかわると、許可のないままサンクトペテルブルクに帰ってきたオルロフは巨大なオルロフ・ダイヤモンド英語版を女帝に贈った[3]にもかかわらず地位を完全に失い、外国に渡った[1]。晩年にエカチェリーナ・ニコラエヴナ・ジノヴィエヴァロシア語版と結婚したが子供はなく、1780年にモスクワに戻った後、数か月後に死去した[1]

オルロフの死後、エカチェリーナ2世は「私はこの悲しい出来事への準備がとうのむかしに整っていたが、やはり私の心の奥深くを揺さぶられてしまいます。人々は私を慰問し、私はこのような場合で言うべき言葉を自分に繰り返してかけるが、私の唯一の答えは涙を押し殺すことだった。私は耐えられないほど苦しんでいます。」と記述した[4]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k Bain, Robert Nisbet (1911). “Orlov s. v. Gregory Grigorievich Orlov, Count” . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 20 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 293.
  2. ^ June Head, Catherine: The Portrait of An Empress, Viking Press, New York, 1935, pp. 312-313.
  3. ^ Malecka, Anna. "Did Orlov buy the Orlov?", Gems and Jewellery, July 2014, vol. 23, no. 6, pp. 10-12.
  4. ^ Kaus, Gina (trans June Head). Catherine: The Portrait of An Empress, Viking Press, New York, 1935, p. 314.

グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:56 UTC 版)

オルロフ家」の記事における「グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ」の解説

グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ伯爵ロシア語: Григорий Григорьевич Орлов、ラテン文字表記の例:Grigory Grigoryevich Orlov1734年10月17日ユリウス暦10月6日) - 1783年4月24日ユリウス暦4月13日))は、いわゆるオルロフ四兄弟」の次兄オルロフ家勃興きっかけ作った人物として特筆される。父グリゴリー・オルロフは、ノブゴロド県知事務めたサンクトペテルブルク陸軍士官学校終えた後、軍務に就く。 グリゴリー・オルロフ軍人生活七年戦争始まったツォルンドルフの戦いでは負傷している。帰国後、砲兵将校としてペテルブルク勤務となるが、この間皇太子妃エカチェリーナ・アレクセーエヴナ(のちのエカチェリーナ2世)の愛人となる。 1762年1月エリザヴェータ女帝崩御しピョートル3世即位すると、エカテリーナ皇后となるが、皇帝夫妻不仲変わらずピョートル失政貴族ロシア正教会、軍からも不評買ったグリゴリー・オルロフの子供を妊娠していたエカチェリーナはこうした情勢見て取りグリゴリー・オルロフ筆頭とするオルロフ兄弟中心にニキータ・パーニン伯、エカテリーナ・ダーシュコワなどを糾合政権奪取向けて動いた同年7月クーデターロシア語版)を敢行してピョートル3世退位させ、エカチェリーナ2世即位したクーデター後エカチェリーナ2世オルロフ伯爵叙し、高級副官工兵総監首席大将任じられた。また、1762年4月エカチェリーナ産んだオルロフ息子アレクセイロシア語版)はボーブリンスキー伯爵家創設したオルロフ家除去しようとするフリトロヴォ(Khitrovo)の陰謀発覚したのち、逆にグリゴリー・オルロフ絶頂期迎えたついには女帝との結婚まで考えられるようになったが、この計画ニキータ・パーニン伯の忠告女帝従ったことによって潰えたグリゴリー・オルロフ政治家としての資質欠けていた。もっとも彼は当意即妙機知富み時事問題に関する正確な視点持ち合わせてはいた。エカチェリーナ2世の治世当初にあっては有能かつ女帝共鳴する顧問として国政関与したオルロフ愛国心経済的な動機から農奴制問題熱中したオルロフ農奴部分的解放による生活の改善主張したオルロフまた、啓蒙専制君主然としたエカチェリーナ2世歓心得ようとして、学術会議自由経済協会Free Economic Society総裁就任し、さらに1767年ロシア法制委員会の最も著名な主唱者としても行動したオルロフにはスラブ派の最も初期煽動としての一面もあった。彼はオスマン帝国からキリスト教徒解放しようと目論んだ1771年フォクシャーニFocşani行われた講和会議ロシア全権代表として赴いたが、これは全くの失敗終わった失敗理由は、パーニンによればオルロフ法外に横柄な外交姿勢に対してオスマン帝国側が硬化してしまったためであった。最もオルロフ全権委員就任自体、弟アレクセイ赫々たる戦果や、エカチェリーナ政治家として大任を自らに与えてくれないという焦燥感駆られたものであり、政治家政略家に不可欠な資質欠け彼には荷が勝ちすぎる職務であった講和失敗し宮廷許可得ずペテルブルク居城大理石宮殿戻ったオルロフ女帝寵愛がより若いヴァシリチコフに移り自身失寵したことに気付いたエカチェリーナの愛を取り戻そうと、オルロフ女帝に対して世界最大級のダイヤモンド献上する。これが「オルロフ」の名で知られるダイヤモンドである。しかし、一度失われた愛情取り戻すことはできなかった。 1771年エカチェリーナ2世にとって「唯一の伴侶グリゴリー・ポチョムキン(後にエカチェリーナとの間に女児エリザヴェータ・ポチョムキナ(チョムキナ)(ロシア語版)を儲ける)が登場する。かつて権勢極めたグリゴリー・オルロフ宮廷からも遠ざかり外国渡った1780年ロシア帰国しモスクワに移る。晩年、姪に当たるジノヴィエワ夫人結婚したが、子どもはいなかった。

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