グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ
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グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ伯爵(ロシア語: Григорий Григорьевич Орлов, tr. Grigory Grigoryevich Orlov、1734年10月17日 - 1783年4月24日(グレゴリオ暦))は、ロシア女帝エカチェリーナ2世の寵臣。エカチェリーナ2世の夫ピョートル3世を廃位してエカチェリーナ2世を女帝に即位させた宮廷クーデターの首謀者であり、クーデターが成功した後は共同統治者同然だったが、不貞を繰り返し、エカチェリーナ2世の顧問たちと対立したことで失脚した。エカチェリーナ2世との間で息子アレクセイ・グリゴリエヴィチ・ボーブリンスキーをもうけたとされる。
生涯
大ノヴゴロド総督グリゴリー・イヴァノヴィチ・オルロフの息子として生まれ、サンクトペテルブルクの士官学校で教育を受けた後、七年戦争に参戦して1758年のツォルンドルフの戦いで負傷した[1]。帰国後、砲兵将校としてサンクトペテルブルクで勤務しているとき、大公妃エカチェリーナ・アレクセーエヴナ(のちのエカチェリーナ2世)の愛人となる[1]。1762年、皇帝ピョートル3世を廃位して殺害した宮廷クーデターの首謀者になり、その功績でエカチェリーナ2世によって伯爵、副将、工兵総監、首席大将に叙された[1]。
エカチェリーナ2世は一時オルロフとの結婚を検討するほどだったが、ニキータ・イヴァノヴィチ・パーニン伯爵によって阻止された[1]。それでもオルロフの権勢は絶大であり、特にフョードル・アレクセーエヴィチ・ヒトロヴォーによるオルロフ家を皆殺しにする陰謀が露見した後はなおさらであった[1]。グリゴリー・オルロフは政治家としての資質に欠けていたが、当意即妙の機知に富み、時事問題に関する正確な視点を持ち合わせていた[1]。エカチェリーナ2世の治世当初にあっては有能かつ女帝と共鳴する顧問として国政に関与し、愛国心と経済的な動機から農奴制の問題に熱中して農奴の部分的解放による生活の改善を主張した[1]。また、啓蒙専制君主然としたエカチェリーナ2世の歓心を得ようとして、学術会議「自由経済協会」の総裁に就任し、さらに1767年の全ロシア法制委員会における最も著名な主唱者でもあった[1]。

オルロフはオスマン帝国からキリスト教徒を解放しようというスラヴ派の主張を提唱した初期の人物であり、1771年にはロシア代表としてフォクシャニ平和会議に派遣されたが、オスマン帝国が強硬だったのと(パーニンによると)オルロフの外交姿勢が横柄だったため失敗に終わった[1]。一方、サンクトペテルブルクではパーニンらオルロフの政敵が策謀をめぐらして、オルロフが13歳の親族をつまみ食いしたと女帝に告発したため、女帝の寵愛がより若いアレクサンドル・ヴァシリチコフに移った[2]。さらにヴァシリチコフがグリゴリー・ポチョムキンにとってかわると、許可のないままサンクトペテルブルクに帰ってきたオルロフは巨大なオルロフ・ダイヤモンドを女帝に贈った[3]にもかかわらず地位を完全に失い、外国に渡った[1]。晩年にエカチェリーナ・ニコラエヴナ・ジノヴィエヴァと結婚したが子供はなく、1780年にモスクワに戻った後、数か月後に死去した[1]。
オルロフの死後、エカチェリーナ2世は「私はこの悲しい出来事への準備がとうのむかしに整っていたが、やはり私の心の奥深くを揺さぶられてしまいます。人々は私を慰問し、私はこのような場合で言うべき言葉を自分に繰り返してかけるが、私の唯一の答えは涙を押し殺すことだった。私は耐えられないほど苦しんでいます。」と記述した[4]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k Bain, Robert Nisbet (1911). . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 20 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 293.
- ^ June Head, Catherine: The Portrait of An Empress, Viking Press, New York, 1935, pp. 312-313.
- ^ Malecka, Anna. "Did Orlov buy the Orlov?", Gems and Jewellery, July 2014, vol. 23, no. 6, pp. 10-12.
- ^ Kaus, Gina (trans June Head). Catherine: The Portrait of An Empress, Viking Press, New York, 1935, p. 314.
グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ
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「オルロフ家」の記事における「グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ」の解説
グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ伯爵(ロシア語: Григорий Григорьевич Орлов、ラテン文字表記の例:Grigory Grigoryevich Orlov、1734年10月17日(ユリウス暦10月6日) - 1783年4月24日(ユリウス暦4月13日))は、いわゆる「オルロフ四兄弟」の次兄。オルロフ家勃興のきっかけを作った人物として特筆される。父グリゴリー・オルロフは、ノブゴロド県知事を務めた。サンクトペテルブルクで陸軍士官学校を終えた後、軍務に就く。 グリゴリー・オルロフの軍人生活は七年戦争で始まった。ツォルンドルフの戦いでは負傷している。帰国後、砲兵将校としてペテルブルク勤務となるが、この間、皇太子妃エカチェリーナ・アレクセーエヴナ(のちのエカチェリーナ2世)の愛人となる。 1762年1月エリザヴェータ女帝が崩御し、ピョートル3世が即位すると、エカテリーナも皇后となるが、皇帝夫妻の不仲は変わらず、ピョートルの失政は貴族、ロシア正教会、軍からも不評を買った。 グリゴリー・オルロフの子供を妊娠していたエカチェリーナはこうした情勢を見て取り、グリゴリー・オルロフを筆頭とするオルロフ兄弟を中心にニキータ・パーニン伯、エカテリーナ・ダーシュコワなどを糾合し政権奪取に向けて動いた。同年7月にクーデター(ロシア語版)を敢行してピョートル3世を退位させ、エカチェリーナ2世が即位した。 クーデター後、エカチェリーナ2世はオルロフを伯爵に叙し、高級副官、工兵総監、首席大将に任じられた。また、1762年4月にエカチェリーナが産んだオルロフの息子アレクセイ(ロシア語版)はボーブリンスキー伯爵家を創設した。オルロフ家を除去しようとするフリトロヴォ(Khitrovo)の陰謀が発覚したのち、逆にグリゴリー・オルロフは絶頂期を迎えた。ついには女帝との結婚までが考えられるようになったが、この計画はニキータ・パーニン伯の忠告に女帝が従ったことによって潰えた。 グリゴリー・オルロフは政治家としての資質に欠けていた。もっとも彼は当意即妙の機知に富み、時事問題に関する正確な視点を持ち合わせてはいた。エカチェリーナ2世の治世当初にあっては有能かつ女帝と共鳴する顧問として国政に関与した。オルロフは愛国心と経済的な動機から農奴制の問題に熱中した。オルロフは農奴の部分的解放による生活の改善を主張した。オルロフはまた、啓蒙専制君主然としたエカチェリーナ2世の歓心を得ようとして、学術会議「自由経済協会」Free Economic Societyの総裁に就任し、さらに1767年全ロシア法制委員会の最も著名な主唱者としても行動した。 オルロフにはスラブ派の最も初期の煽動者としての一面もあった。彼はオスマン帝国からキリスト教徒を解放しようと目論んだ。1771年フォクシャーニFocşaniで行われた講和会議にロシア側全権代表として赴いたが、これは全くの失敗に終わった。失敗の理由は、パーニン伯によればオルロフの法外に横柄な外交姿勢に対してオスマン帝国側が硬化してしまったためであった。最もオルロフの全権委員就任自体、弟アレクセイの赫々たる戦果や、エカチェリーナが政治家として大任を自らに与えてくれないという焦燥感に駆られたものであり、政治家、政略家に不可欠な資質に欠ける彼には荷が勝ちすぎる職務であった。講和に失敗し、宮廷の許可も得ずペテルブルクの居城、大理石宮殿に戻ったオルロフは女帝の寵愛がより若いヴァシリチコフに移り、自身が失寵したことに気付いた。 エカチェリーナの愛を取り戻そうと、オルロフは女帝に対して世界最大級のダイヤモンドを献上する。これが「オルロフ」の名で知られるダイヤモンドである。しかし、一度失われた愛情を取り戻すことはできなかった。 1771年、エカチェリーナ2世にとって「唯一の伴侶」グリゴリー・ポチョムキン(後にエカチェリーナとの間に女児エリザヴェータ・ポチョムキナ(チョムキナ)(ロシア語版)を儲ける)が登場する。かつて権勢を極めたグリゴリー・オルロフは宮廷からも遠ざかり外国に渡った。1780年ロシアに帰国しモスクワに移る。晩年、姪に当たるジノヴィエワ夫人と結婚したが、子どもはいなかった。
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