失寵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:07 UTC 版)
「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の記事における「失寵」の解説
ランバル公妃が総監に就任した1775年以降、王妃の寵愛は新しい友人ポリニャック夫人へと徐々に移っていった。外交的で社交能力に長けたポリニャックは内気なランバルを野暮ったいとけなしたが、ランバルもポリニャックは王妃を堕落させるとして彼女を嫌った。マリー・アントワネットは2人の友人を仲良くさせられず、自分が求める娯楽やどんちゃん騒ぎを提供してくれるポリニャックのグループに近づいて行った。1776年4月、メルシー大使は次のように報告している、「ランバル公妃は寵愛をすっかり失ってしまいました。これまでは常に王妃様に大切にされてきましたが、今や全く信頼されなくなっています」、続いて同年5月の報告には、「[ランバル公妃と王妃の間で]言い争いが続いています。公妃は立場が悪くなってきています」。 1780年、王妃がプチ・トリアノンで素人劇団を立ち上げたとき、ポリニャック公爵夫人が団員にランバル公妃を加えないことを王妃に約束させた。この頃、メルシーは次のように書いている、「公妃の姿を宮廷で見ることは滅多にありません。驚いたことに、王妃様は公妃の御父君の薨去の際に公妃の屋敷をご訪問なさいましたが、王妃様が公妃に親切な態度をお示しになったのは、これが初めてかと思うくらい久しぶりの事です」。 ランバルはポリニャックに寵臣の座を完全に奪われたが、王妃との友情は細々と続いていた。王妃はポリニャック一派との派手な遊興の合間に時おりランバルの部屋を訪れ、公妃の落ち着きぶりや変わらぬ忠誠心を称賛し、あるとき公妃を「私が知る限り唯一の、人に悪意を持たない女性です。あの方には憎悪や嫉妬というものがない」と評した。ランバル公妃は王妃家政機関総監の職を保持し、職務を継続していた。彼女は王妃の名前で舞踏会を主催し、王妃にデビュタントたちを紹介し、王妃が外国王室の賓客を歓待する際にはこれを補佐し、王妃の出産や毎年行われる王妃の復活祭ミサにも立ち会った。1785年の首飾り事件の際、ランバル公妃は首謀者のラ・モット夫人との面会を求めてサルペトリエール監獄を訪問したが、面会は叶わなかった。訪問の目的は不明だが、当時は様々な憶測が噂として流れた。 公務以外では宮廷に滞在することは少なかったが、これは自身と舅のパンティエーヴル公の体調が思わしくなかったためだった。1780年代中頃には、公妃はかなり健康を損ない、職務を果たすのが難しくなった。公妃はしばしばメスマーの弟子シャルル・デロン(フランス語版)医師による動物磁気の治療を受けた。 1787年夏、彼女は医師の勧めで英国バースへ鉱泉治療に出かけている。大衆は、公妃の旅行は王妃の密命を受けた外交ミッションであり、罷免された前財務総監シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌがもうすぐ出版する暴露本に書かれた王室に不利な記述を削除するよう求めるために渡英したと推測したが、本当は当時カロンヌは英国内にいなかった。バースでの湯治を終えたランバル公妃は健康を徐々に取り戻し、宮廷への出入りも以前より頻繁になった。ちょうどポリニャック夫人との関係が決裂しかけていたマリー・アントワネットも、公妃の忠実さに感謝し、再びランバル公妃に友情を示すようになった。
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失寵
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「ニーコン (モスクワ総主教)」の記事における「失寵」の解説
1658年7月、ニーコンは総主教に座したまま、唐突に、モスクワ近郊の新エルサレム修道院に遁走した。ロシア史家の中澤敦夫は、これはツァーリを驚かせ、自分の権威を回復するための示威行為であろうと指摘する。ただしツァーリはすでにニーコンを疎んじており、帰還を請うことはなかった。教会は臨時の長を選んだが、ニーコン自身は総主教後継者の選出を拒み、ロシア正教会は、1658年から1667年まで、実質的には総主教がいない状態にあった。ツァーリ・アレクセイはニーコンを遠ざけても、教会のギリシア式への改革は続けたが、この間に、反対派が勢いを盛り返した。
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