失勢から薨去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 08:08 UTC 版)
宣太后は政治運営を魏冄・羋戎・公子巿・公子悝の四貴に任せ、その権力は時の秦王である昭襄王の権力を上回り、四貴こそが国を動かしている事を秦国内で知らぬ者は無かった。 その様な中、魏から秦に逃亡してきた范雎が昭襄王に仕えるようになり、その重用を受けるに至ると范雎は昭襄王に対し夏・殷・西周の三代が滅んだ理由は、君主が政治を臣下に任せきりであった事に起因すると言上し、宣太后を始めとする四貴を罷免し、その権力を剥奪する事を申し出た。 昭襄王42年(紀元前265年)、昭襄王は范雎の上奏を容れると宣太后を退位させ、四貴を罷免して関外のそれぞれの封地へ追放し、宣太后並びに四貴の秦の政治への影響力を無きものとし、自身の王権体制を確立させた。 同年宣太后は薨去し、芷陽の寿陵に埋葬された。この時、宣太后は情夫である魏丑夫(中国語版)に自らの死後、殉死する事を命じようとしたが、秦の大臣の一人である庸芮(中国語版)の説得によりそれを取り止めることにし、魏丑夫への殉死の命令を取り消した。
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