失墜と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:18 UTC 版)
やがて、ラコバはアブハジア自治共和国をグルジア社会主義ソビエト共和国から分離し、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に編入することを求めるようになり、スターリンに対してアブハジアをクラスノダール地方へ編入するよう要求さえした。この動向にスターリンはラコバを警戒するようになり、それに気付いたラコバは1934年に『スターリンとハシミ』を執筆してスターリンを賛美し、個人崇拝の波に便乗しようとした。しかし、スターリンからさらなる寵愛を受けていたベリヤが翌年に『ザカフカース地方におけるボリシェヴィキ組織の歴史』を発表して一層のスターリン賛美を繰り広げたため、ラコバに対するスターリンの信頼が戻ることはなかった。 この時期のラコバとベリヤの関係は完全に冷却していたが、それは1932年にオルジョニキーゼに対してベリヤが述べた陰口をラコバが漏らしたことが原因である。あるいは、二人の不仲の原因をアブハズ人(ラコバ)とミングレル人(ベリヤ)の間の長年の確執に帰する見方も存在する。事実、1933年から1937年にかけての第二次五カ年計画(ru)の際に、ベリヤはロシア人、ミングレル人、アルメニア人をアブハジアへ入植させている。いずれにせよ、スターリンはラコバとベリヤの間の不和を知りながらそれを放置していた。 1935年3月15日、ラコバは農業分野での功績を彰してレーニン勲章を授与された。同年末、スターリンはNKVD長官の職と引き換えにモスクワへ移るようラコバに打診したが、アブハジア「国王」の座に居座ることを望んだラコバはこれを固辞した。 1936年11月25日から12月5日にかけてモスクワで開催された第8回全連邦会議 (ru) に出席し、新たなソ連憲法(いわゆるスターリン憲法)の制定にかかわった後、ラコバは一度アブハジアへ戻った。しかし、12月26日夜に党活動家会議のため緊急にトビリシへ召喚された。その晩、ホテルに宿泊していたラコバのもとにベリヤから食事の誘いがあった。ラコバがこれを拒否すると、今度はベリヤの母が執拗に電話をかけてきて彼を食事に誘った。これに折れたラコバは翌27日にトビリシでベリヤと夕食の席を共にし、その後向かった劇場で吐き気を催して倒れた。 ホテルへ戻ったラコバは「蛇のベリヤにしてやられた!」と呻き、翌12月28日午前4時20分に「心臓発作」で死亡した。 ベリヤはラコバの遺体を列車でスフミへ送り返したが、その遺体からは内臓がすべて取り除かれていた。しかし、ラコバの主治医は遺体の剖検を行い、彼が青酸によって毒殺されたと結論付けた。 ラコバの葬儀はスフミで行われ、十数万人以上がそれに参列し、スターリンも弔電を打った。遺体は防腐処理を施され、植物園内に特設された保管庫へ安置された。だがベリヤは「人民の敵(ロシア語版)はアブハジアに葬られるに値しない」として後に遺体もすべて焼却させた。
※この「失墜と死」の解説は、「ネストル・ラコバ」の解説の一部です。
「失墜と死」を含む「ネストル・ラコバ」の記事については、「ネストル・ラコバ」の概要を参照ください。
- 失墜と死のページへのリンク