王妃家政機関総監
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:07 UTC 版)
「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の記事における「王妃家政機関総監」の解説
1775年9月18日、王妃はランバル公妃を、ヴェルサイユの宮廷女官の最高官職である王妃家政機関総監(シュランタンダント・ド・ラ・メゾン・ド・ラ・レーヌ(英語版))に任命した。この人事は紛糾を引き起こした。総監職は俸給額が飛びぬけて高額で、権限と影響力も他の女官を圧倒するほど強大であり、例えば他の女官の出した命令は総監の指示で撤回可能であった。そのため1741年以来、34年間にわたり空席となっていた。王妃は友情に報いたい一心から任命したのだが、ベテランの宮廷女官たちは、ランバル公妃は総監に就任するには身分こそ申し分ないが、若く経験も無いとして、この任命に憤慨した。 王妃の生活に関する全決定についての事前の確認と承認、王妃の許に届く全ての書状・嘆願書・覚書のチェックと仕分け、そして王妃の名の下に晩餐会や舞踏会を主催し貴族たちをもてなすことが、総監の職務だった。総監職は宮廷の序列において極めて高い上席権を伴ったことも、宮廷の多くの人々の羨望と嫉視を呼び起こした。総監職の俸給は年額15万リーヴルと莫大だったが、国家財政が逼迫していた上にランバル公妃は大富豪であるため、財務総監テュルゴーは公妃に俸給の減額の承認を求めた。しかし公妃は総監を引き受けるならば歴代の前任者と同じ待遇を要求するとし、通らなければ辞退すると宣言したため、王妃の求めにより総監の俸給には従来通りの額が設定された。 この就任時のいざこざは公妃に対する世間の印象を非常に悪くする結果となり、大衆向けの刊行物はランバル公妃を王妃の欲深い寵臣と書き立てた。公妃は神経過敏、ひきつけ、失神などの症状に悩んでおり、失神すると何時間も意識を失うこともあったのだが、庶民たちは公妃の失神する様子を真似して、彼女を揶揄した。彼女の寵臣としての立場は広く国民に膾炙し、公妃が暇をもらって田舎に出かければ、行く先々で王族並みの歓待を受け、彼女に詩が献呈されることもあった。 総監となったランバル公妃は仲の良い弟のヴィラフランカ伯エウジェーニオをヴェルサイユに呼び寄せた。王妃は親友の弟であるヴィラフランカ伯に高収入なフランス軍の連隊長職を与えた。 公妃はまた、亡夫の妹アデライードの夫シャルトル公がポワトゥー州知事(フランス語版)に任命されるよう王妃に働きかけた。公妃はシャルトル公爵夫妻と親しく、夫妻の長男ヴァロワ公の誕生にも立ち会っている。フランス・フリーメーソンのグランドマスターを務めていたシャルトル公との友人関係から、ランバル公妃は1777年、シャルトル公爵夫人と共にフリーメーソンの女性組織サン・ジャン・ド・ラ・カンデュール・ロッジの会員となった。次いで1781年1月公妃はアドプション系諸ロッジの最高責任者であるスコットランド・ロッジのグランド・ミストレスに就任した。公妃は1788年、義妹オルレアン公爵夫人(もとのシャルトル公爵夫人)と共に、彼女の夫オルレアン公(もとのシャルトル公)が国王の決定に反抗して地方に追放された件について、高等法院の評定官たちに同調して、オルレアン公の追放処分の解除を求めている。
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