王妹との結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:37 UTC 版)
「チャールズ・ブランドン (初代サフォーク公爵)」の記事における「王妹との結婚」の解説
同じ1514年、メアリー王女のハプスブルク家との縁組は一旦立ち消えになり、英仏間の和平の証として、初老のフランス王ルイ12世に嫁ぐことが決まった。王のお気に入りの妹だったメアリーは、2度目の結婚相手は好きに選んで良いという言質を王から取り付けた上で、フランス王との結婚を了承した。この時、既にメアリーとブランドンは恋人同士になっていた。メアリーとフランス王の婚儀は1514年8月13日に執り行われた。 ルイ12世はその年の大晦日に突然倒れ、死去した。フランスの新王フランソワ1世は若い義母メアリーからブランドンへの恋心を打ち明けられ、メアリーをフランス人と結婚させるか、ブランドンとの恋愛結婚を貫かせるか出来ればよいと考えるようになった。すでにメアリーとカルロス1世との縁談が復活しており、もし実現すればフランスには不利だからである。 ブランドンは前王妃メアリーを連れ帰る任務と、ヘンリー8世からの新王フランソワ1世即位の祝辞を届ける任務を携えて、フランスに渡った。ブランドンは1515年2月1日にフランソワ1世との謁見を果たすが、フランソワ王は2月中にメアリーとブランドンをクリュニーで秘かに結婚させてしまった。フランソワ1世はさらに2人の結婚を実現させた見返りとして、メアリーがイングランドに持ち帰る予定だった花嫁持参金の返還を辞退するよう求めた。ウルジーとヘンリー8世の必死の外交努力により、メアリーの持参金はイングランドに全額返済された。 1515年5月13日、ブランドンとメアリー王女の正式な婚礼が国王夫妻臨席のもと、グリニッジのプラセンティア宮殿で執り行われた。ブランドンは今や国王の義弟となったものの、宮廷儀礼においては一臣下として王の前には跪かねばならず、宮中の儀式では常に妻が上位で優先権を持っていた。ブランドンがメアリー王女と夫婦として対等に扱われることは一度もなかった。 1516年3月11日、メアリー王女は第1子となる男児を出産し、息子は伯父の国王にちなんでヘンリーと名付けられたが、1522年に死んだ。続いてフランセス(1517年生)とエリナー(1519年頃生)の2人の娘が生まれた後、1523年に2人目の男児ヘンリーを授かった。第3子と第4子については、正確な生年月日は判明していない。 ブランドンはヘンリー8世とフランソワ1世が1520年にカレー近郊で開いた会見(金襴の陣)にも随行し、妻とともにフランス帰りのアン・ブーリンが王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女として宮廷入りするのを口添えした。1525年、ブランドンの次男ヘンリーがリンカーン伯爵に叙爵されたことは、王の庶子ヘンリー・フィッツロイがリッチモンド公爵およびサマセット公爵に取り立てられたことと同様、キャサリン王妃の心と名誉を酷く傷つける出来事となった。この時期以降、メアリー王女は次第に病気がちになっていった。メアリーは1533年6月26日、ブランドンがアン・ブーリンの王妃戴冠式の責任者として多忙を極める中で死去した。
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