王妃エリザベッタの国政介入とイタリア奪還の企て
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 14:22 UTC 版)
「スペイン・ブルボン朝」の記事における「王妃エリザベッタの国政介入とイタリア奪還の企て」の解説
1714年に妃であったマリア・ルイーザが死去すると、フェリペ5世はパルマのファルネーゼ家出身のエリザベッタ・ファルネーゼと再婚して7人の子供を儲けた。エリザベッタはフェリペ5世との間に出来た2人の男子を自分の故郷であるイタリアの王位に就けようと試み(これにはユトレヒト条約の失地回復も兼ねている)国政に介入するようになる。これを忠実に実行したのがパルマ出身の枢機卿ジュリオ・アルベローニであり、彼は1717年に軍を派遣してサルディーニャとシチリアを奪還することに成功した。スペインの泥棒行為に対してイギリス、オランダ、オーストリア、さらには「本家」であるフランスもが「四国同盟」を結成して対抗することになった(四国同盟戦争)。結果、スペインは占領地を失い、アルベローニは責任を問われて失脚した。 国政の混乱が身に応えたのか、フェリペ5世は鬱病に陥り、先妻との子であるルイス1世に王位を譲るが、ルイス1世は1年足らずで死去して、フェリペ5世は復位を余儀なくされる。 1729年のセビリア条約で、エリザベッタの念願であった実子カルロスのパルマ公位獲得が認められた。加えて、ポーランド継承戦争(この戦争の際にフランスと「第1回家族協定」を結んで関係改善を図っている)の結果、カルロスはナポリ及びシチリアの王位も獲得した。代償としてパルマを放棄することを余儀なくされたが、そのパルマもオーストリア継承戦争の結果、カルロスの弟フェリペが公位に就くことで回復している(フェリペの家系はブルボン=パルマ家と呼ばれる)。
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