王妃の侍女から国王の愛人へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 10:17 UTC 版)
「アン・ブーリン」の記事における「王妃の侍女から国王の愛人へ」の解説
アンは幼少期にメヘレンのマルグリット・ドートリッシュの私設学校で教育を受けた後、フランス宮廷に戻った。1526年頃に帰国し、ヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となった。オーモンド伯爵の相続争いを収めるため、もう一人の相続人ピアス・バトラーとの結婚の話もあったが、立ち消えになった。他に詩人のサー・トマス・ワイアットや後のノーサンバランド伯ヘンリー(ハル)・パーシー(英語版)とのロマンスもあったといわれるが、ジョアンナ・デニー(Joanna Denny)のようにロマンスはいずれも根拠がないとする歴史家もいる。同時代のフランス側の一次史料によれば、アンは魅力に乏しい女性であり、国王のお気に入りという以外にこれといった特徴がなかったと記録されている(In the early 1530s, the Venetian ambassador Savorgnano wrote)。 やがてアンは、ヘンリー8世の愛人になるよう求められた。 ヘンリー8世とキャサリンとの間には王女メアリー(後のメアリー1世)しか子がなく(早世した男子がいたともされる)、ヘンリー8世は男子の王位継承者を切望していたものの、当初はアンを愛人にする程度で満足するはずだった。 しかし、アンから強硬に王妃の座を要求され、さもなければ肉体関係は拒否すると宣言されたため、ローマ教皇クレメンス7世にキャサリンとの「離婚許可」を求めることになった。
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