内容と受容
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「ギャラクシー・サイエンス・フィクション」の記事における「内容と受容」の解説
ゴールドは『ギャラクシー』誌に載る小説を、スリック雑誌の読者を引き付けられるくらい文学的にしようと意図していた。彼の編集方針は先行するSF雑誌『アスタウンディング』のジョン・W・キャンベルよりも懐の広いものであった。ゴールドは社会学、心理学といった「ソフト」な科学にも門戸を開き、またユーモアや風刺を旨とする作品も出版しようと心がけた。『ギャラクシー』誌は直ちに成功を修め、初回(1953年度)のヒューゴー賞ベスト・マガジン部門を受賞した。 SF史家のマイク・アシュリーは『ギャラクシー』の成功を、SF雑誌創刊ブームの主たる原因と見ている。『ギャラクシー』は2年目で10万部以上の発行部数を誇り、『アスタウンディング』以上の成功を修めた。50年代の『ギャラクシー』の表紙は、逆L字型の枠で表紙絵を囲うという特徴的な形式を取っており(本項右上の画像を参照)、これは『スタートリング・ストーリーズ』やイギリスの『オーセンティック・サイエンス・フィクション』などの数誌に模倣された。その内容もまた影響力が強かった。ライバー『ビッグ・タイム』、デイヴィッドスン「あるいは牡蠣でいっぱいの海」のようなヒューゴー賞受賞作はもちろん、コーンブルース"The Marching Morons"、ブラッドベリ"The Fireman"(『華氏451度』の原型)、アシモフ『鋼鉄都市』などの作品は古典と見なされている。ゴールドは広範な題材の作品を出版したが、『ギャラクシー』は50年代にはアイロニーと風刺でも有名だった。ゴールド好みのひねくれた作品を書ける作家たち(ロバート・シェクリイやデーモン・ナイトら)は『ギャラクシー』の顔となり、定期的に作品を寄稿した。
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内容と受容
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「オーセンティック・サイエンス・フィクション」の記事における「内容と受容」の解説
25号までの間、『オーセンティック』は1つの号にフィクションは長編1本のみの体制で運営された。ただし読者のお便り欄"Projectiles"(「ミサイルども」)、社説、書評、ファンジン批評など各種のノンフィクションは併録した。また科学関係の記事、クイズも掲載された。26号(1952年10月号)では初の連載小説、シドニー・J・バウンズ(Sydney J. Bounds)の"Frontier Legion"(フロンティア部隊)が開始された。29号にはウィリアム・F・テンプルの長編"Immortal's Playthings"(不死の玩具)にレイ・ブラッドベリの短編"Welcome, Brothers!"(ようこそ、兄弟たちよ!)が添えられ、『フロンティア部隊』の第4回も掲載された。この連載は一回あたり10数ページの量で、6回に渡り連載されて31号において終了した。 初期の『オーセンティック』に掲載されたSF小説はどれもみな質の低いものであった。SF史家マイク・アシュリーは、創刊号のリー・スタントン著『火星から来たキノコ人間』を「空恐ろしい品質」、3号のロイ・シェルドン著『アウレウスの黄金人間』を「悲惨である」と述べている。しかしながら当時編集部員であったH・J・キャンベルはそう悪くない作品を寄稿している。"Phantom Moon"(幻影の月)はロイ・シェルドンのハウスネームの下に書かれ、6号(1951年3月15日)に発表された。最初に本名で書いたのは"World in a Test Tube"(試験管の中の世界)で、8号(1951年4月15日)に掲載された。彼は編集長になってからも自誌への寄稿を続けた。キャンベルの作品はアシュリーによると「特に洗練されているわけではない」とは言え「楽しめる」ものであった。E・C・タブも常連寄稿者で、いくつかのハウスネームの下で執筆した。ランズボーロウによれば、ハウスネームの使用は、作家たちの姿を他社から隠すことにより彼らを自社に囲い込む意図があったという。 他の常連寄稿者としてはシドニー・J・バウンズ、ウィリアム・F・テンプル、ブライアン・ベリー(Bryan Berry)、ケネス・バルマーらが挙げられる。 1953年の始めにはアメリカで発表された作品のリプリントが載るようになったが、同年中に中止となり、1956年から再開され57年3月(78号)まで続いた。78号に掲載されたリプリントは大御所アイザック・アジモフ1951年の短編"Ideals Die Hard"(理想は滅び難し)であった。他に『オーセンティック』に書いたことのある有名作家にはブライアン・オールディスやジョン・ブラナーがいる。科学記事は、キャンベル時代には力を入れられたが、タブ時代には廃止された。 おそらく、『オーセンティック』史上で最も著名な作品は1953年3月号掲載のチャールズ・L・ハーネス"The Rose"(薔薇)であろう。他に特筆すべき作品はほとんど無い。ピータ・ニコルズ&ジョン・クルートの"Encyclopedia of SF"では本誌に「第一級の作品はめったに載らず」、ハーネスの"The Rose"は特殊な例外であった旨が述べられている。デイヴィッド・カイルは自著"Pictorial History of Science Fiction"(図解SF史)で、キャンベルは雑誌を「飛躍的に良く」したと言明している。またSF書誌学者ドナルド・タックは、この雑誌が最終的には「良い水準」を達成したと結論づけている。だがマイク・アシュリーの意見は次のようである。『オーセンティック』は「悲しいほど独自性を欠いており」、載る作品は「ステレオタイプで無理やりなものだった。というのもキャンベルがごく少数の常連作家たちをせっついて大量生産をさせていたからだ」。 『オーセンティック』の表紙絵は、当初は拙劣であったが、1953年の中頃からは改善が始まった。後に『ディスクワールド』のイラストで有名になるジョシュ・カービィは61号(1955年9月)以降7冊の表紙絵を描いた。天文画の表紙絵も多かった(これらは明らかにアメリカの画家チェスリー・ボーンステルの影響を受けたものであった)が、それなりに好結果を残した。
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