市壁の開放と啓蒙主義の時代
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「デトモルト」の記事における「市壁の開放と啓蒙主義の時代」の解説
フリードリヒ・アドルフ伯は、市壁を破壊した後、1701年から市の南に計画的なノイシュタット(新市街)の建設を行った。彼は、国庫の資金で、宮殿とフリードリヒスタールの離宮を建設した。さらに城館からこの町を経由してゴンドラと閘門を使って離宮に至る運河を掘削した。1720年に土塁と堀を解体する許可が得られたが、市門と市壁の塔の撤去は 1780年からやっと行われた。19世紀に、市域は特に南部が宅地のために開発されたが、旧市壁内でも街の光景は変化していった。前世紀に建設された木組みの切妻建築も遺ってはいたが、その時代流行の古典主義様式の新しい建築物も出現した。この時代の最も印象的な建造物がマルクト広場沿いの市庁舎である。この市庁舎建設のために、16世紀に建てられた旧庁舎は解体された。 啓蒙主義の時代のリッペの学制は、模範的な基礎学校制度として広く知られていた。リッペ侯妃パウリーネ(ドイツ語版、英語版)は、優秀な協力者の助力を得て、一般的な市民教育の向上および困窮者、病人、孤児、老人たちの生活環境改善に努めた。彼女の主導下で、デトモルトに養護施設、孤児院、病院、失業者のための授産所といった一連の教育的社会施設が設けられた。1802年、デトモルトにドイツ初の幼稚園が創られた。この幼稚園は、1856年に「パウリーネンアンシュタルト」の名を与えられ、現在も存続している。また、パウリーネ侯妃は1809年に26基のオイルランプを用いてデトモルトに街灯を設置した。 1818年にレオポルト通りとホルンシェ通りが造られ、1825年には邦有劇場が建設された。1835年のこの街の人口は 4,137人で、リッペで最も人口の多い街であった。この街はクリスティアン・ディートリヒ・グラッベやアルベルト・ロルツィングといった精神世界の傑出したリーダーと縁があったにもかかわらず、文化生活は田舎の風情を遺していた。侯の宮廷、廷臣、官吏を社会の頂点とする階級差別や教育格差は大きかった。三月革命では、デトモルトでも市民運動が起こり、城館前や通りでデモが行われた。当局は市民の要求を容れ、グラッベの友人であった市民運動指導者のモーリッツ・ペトリを内閣に入れた。この措置と1850年の反動によって市民の騒乱は速やかに霧散した。 音楽と演劇を愛好したレオポルト3世は、1851年から1875年まで統治し、本市の演劇・音楽活動を奨励した。彼は、クララ・シューマンや若き日のヨハネス・ブラームスを侯家のピアノ教師として招き、しばしば彼らをソリストとしたコンサートをデトモルトで開催した。これによりデトモルトはミューズの都(芸術都市)として発展を始めた。しかし後継者のヴォルデマールは全く逆の性格で、1875年の登位直後に文化活動に対する支出を完全に打ち切った。彼は1875年に宮廷楽団を解散させ、財政引き締め措置を発動したが、同時に社交・家格維持のための出費は増加した。 デトモルトは歌曲「Lippe-Detmold, eine wunderschöne Stadt …」(リッペ=デトモルト、素晴らしく美しい街・・・)で多くの人に知られている。この曲の作曲者は不明だが、1807年のアイラウの戦いと関係している。この曲は最初はデトモルトと関係づけられてはおらず、韻律に合う25以上の町が自分の町の歌であるとしていた。1880年頃から学生歌、行楽曲、軍歌として、リッペ=デトモルトという現在の形のみが流布するようになった。
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