第一次北属期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/13 23:37 UTC 版)
詳細は「en:First Chinese domination of Vietnam」を参照 紀元前2世紀頃、南越が北ベトナムに存在していた甌雒を併合する。 紀元前111年に南越は漢の攻撃を受けて滅亡する。漢は北ベトナムに設置した交趾郡・九真郡・日南郡と、現在の中国に属する6つの郡を合わせて交州を設置した。 南越は漢と同様の中国人の国家であるが、 ベトナムには代理の総督を置いて土着の封建勢力に統治を委任する間接統治を実施していたこと 南越が間接的に支配していた甌雒は、「国家」に相当するか、原始的な村落の集合体ではないのか 中国を覇権国家とみなし、覇権主義をとった前漢の支配を中国支配の始まりとするべきか ベトナム人が南越の統治時代をベトナム史に含めて北属期から除外することがあるのは、上記3点、加えて漢の攻撃に抵抗した南越への共感に基づくと考えられている。 支配当初、漢は交州に存在していた貉侯と貉将という組織を利用して統治を行っていたが、やがて漢の行政制度を適用するようになり、中央に任命された刺史、刺史の下にある太守が統治を行った。だが、漢は在地の人間に封土を与え、統治を委任した地域も依然として存在していた。 前漢の統治下に置かれた北ベトナムには、南海の富貴を求める漢の官吏、商人が移住した。移住した官僚とその子孫は次第に土着化していき、在地の封建勢力と共に支配階級を構成する。漢から派遣された統治者の中には寛大な政治を行って民衆から慕われた者もいたが、苛烈な搾取を行う官僚が多く、漢の支配に対する反感は強くなっていった。 王莽の簒奪と同じ時期に交趾太守を務めた錫光(ベトナム語版)(チ・クアン)は中国文化の普及を進め、儒教をベトナムに導入したと言われている。錫光は中央の混乱を避けて交州に逃れた官吏と学者たちを受け入れ、彼らの進言に従って学校を建設し、漢と似た行政制度を導入した。 40年、ハノイ西の土着の首長の娘である徴姉妹(ハイ・バー・チュン)が、後漢の統治に対して反乱を起こす。徴姉妹の反乱は強権的な漢の港市である交趾郡に対する紅河デルタ土着の農耕民の反発であり、漢統治前からベトナムにあったドンソン文化の漢文化への抵抗が背景にあったと考えられている。42年に後漢の将軍・馬援によって反乱は鎮圧され、馬援の元で紅河デルタと広西を結ぶ陸路、紅河と雲南を結ぶ水路が建設された。馬援の元で土着の貉将の土地は再編され、抵抗する貉将たちは中部ゲアンまで漢軍の追撃を受け、3,000-5,000人の貉兵が斬殺された。徴姉妹の反乱の後に貉将制度は廃止され、交州に県制度が導入された。貉将に代わって、遠征に随行した漢人や漢人を祖先に持つ人間が行政に携わるようになり、漢の直接支配が確立された。44年、反乱の平定を終えた馬援は漢に帰国した。 ベトナムの民衆は漢から課せられた重税と労役、同化政策に苦しめられたが、同時に漢から導入した農工業の技術により、産業はより発達した。
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